文月十七日の雑記:未知へ〜は、時が満ちたということかもしれない

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夢のなかで私は音楽の神様にレッスンを受けている。
穏やかで心地よい時間が流れる。
いつまでもここにいたいと思う。

そして目覚めると義務感だけが残っていて、せっかく受けたレッスンの中身を覚えていない。

せっかく大切なことを教わったのに、なぜ私は形にできないのだろう、ちゃんと習った通りに弾けないのだろう。

生きているうちに、神様が納得して下さるような音楽を作ったり演奏したりするようには、きっとならないのだろう。

それならなぜ神様のレッスンを自分は受けているのだろう。自分のこの中途半端な才能に何の意味があるのだろう。

こんな思いから脱却できないまま、人生がどんどん残り少なくなってきてしまった。活動できる体力や気力も年々、限られていく。焦りというよりはもはや諦めの境地。でも何もしないよりは、少しでもできることやれることを見つけては、何だか後片付けのような残務整理のような気分で音楽に取り組んでいる。日々ほんのわずかの時間、鍵盤に向かう。それだけ。

向上するものもなく、新しく生まれてくるものもわずか。

それでも神様のレッスンをふと思い出すことがある。

そしてその向こう側にあったはずの「思い」がかいまみえる気がする。

私は「なにか」しようとして生まれてきたのではなかった。

それはけして有名になるとかグラミー賞を取るというようなことではなかったはず。もっと自分らしい、ある意味、地味で平凡で、それでいてちょっとは自分が誇らしいと思えるような方向だったのではないのかな。

ずっと以前から目の前にあるものが、もはや当たり前になってしまい、それがそこにあることの意味を見失ってしまう。人にはそんなところがある。

あるのに気づかない。持っていることがわからない。自分にしかできないことがある、そのことに気づかない。

私はまだ気づいていないのだろうか。

それとも少しぐらいは気づき始めているか、そこに一歩でも近づけているのだろうか。

いい歳して恥ずかしいという気がするが、もうあとがないからやぶれかぶれでなんでもいいから何かやってみようかという気持ちになっているのかもしれない。

そういえばSoundCloudになんか上げてあったよね・・。と掘り出してみました。

昔はネットに音楽を置いても聞いてもらいようがなかったんだよ。
でも、今はリンクはるだけで誰でもどこからでも聴けるようになったらしい。

もしかして時代が自分に追いついたのかな?

確かに。私はネットが黎明期の頃からそこにいた。でもそこにいても誰も気づいてくれる人はいなかった。自分の音楽が虚しく空回りしているだけだった。

ハッシュタグつけてSNSに投稿したら少しは広がるのかもしれない。インスタ黎明期に実験したときは、何の手応えもなかったんだけどね。確かに今、時は満ちたのかもしれない。