私たちはいかに生きるべきか
私たちはなんのために生きているのだろうか。真実はさほどむずかしくない。ものごとの本質は結局はとてもシンプルだったりする。
「愛を学ぶため」に魂ははるばる遠くから地上に生まれ変わってやってくる。そして死んで、また生まれてくる。嫌になっても、もういいと思っても、やっぱり懲りずに生まれ変わってくる。もういいや、と思っても(そんなふうに時間をぼんやり無駄にしている人ほど)ほぼ間違いなく生まれ変わってくる。そう簡単に転生のサイクルから解脱できるものではない。そもそも解脱したいなんて思っている時点でちょっと「目的」を見失っている可能性すらあるから要注意。
もう一度。
「愛を学ぶため」に私たちは生まれ変わってくる。
つまり、「生きる」ということは「愛を学ぶ為の体験学習」ともいえる。学習だから、楽じゃない。楽する為の人生じゃない。
よく「なんでこんなに辛いんだ、苦しいことばかりなんだ」となげく人がいる。なげき続けていてもなかなか人生は好転しない。
でも、あまりにも苦しいことがあると、ちょっとこれはないだろうと思うことがある。身近な人を亡くしたり、あまりにも生きることの代償が大きすぎる時はさすがに「こんなひどいこと」を通して、いったいぜんたいどうやって愛を学べばいいのか、と思うことはたしかにある。
それでもやはり「愛を学ぶほかに生きる道はない」と思う。
辛いことがあった時、どうしようもないことがあった時、そんな時こそ私たちは絶好のチャンスをむかえている。そこで「なにを学べばいいのだろう?」と考え、試行錯誤する人とそうでない人では来世がかわる。
私たちの人生の目標は今生で楽をすることではない。だからといって日々、楽しみを糧に生きることを放棄すべきでないし、人並みにエンジョイしようとすることは罪ではない。でもけして目指すべき本質ではないのはたしかだ。
学ぶ為には気力も体力も必要だからね。しっかり充電しないと学びようもないし、吸収もできない。魂が修行をするには「それなりの環境」が整っていることが、とても大事な要素だ。だから現実の日常が豊かであることも「よい学習」には必要な条件になる。
「厳しい現実的な問題」と向きあう時、そこに「愛を学ぶべき課題」がストレートに隠されていることもあれば、ひとまず現状の体力づくりの為に「充電に入るべき時期」であるという隠されたサインである場合もある。もし前者なら、善は急げだ。もし後者ならじっくり長期戦で体力回復に務めるべしだ。見極めができれば人生をより有意義に生きられる。
(※光のサロンでは、魂がいかに愛をまなぶべきか、という命題を前提に「現実の諸問題との向き合い方」を鑑定できるので、些細なトラブルでもどんどん利用して欲しいと思います。動くべきか、休むべきか。その判断ができるだけでも運勢は自分により有利に変化しやすくなります。)