もう生まれ変わらない、ということ。

輪廻転生は永遠に繰り返されるわけではない。
魂が、すっかり学ぶべきことを学び、磨きあけることがすっかりできあがってしまえば、もうそれで修行はおしまい。
そういう最後の人生であるかどうか、という問いかけをいただくこともあるし、前世のいきさつ、そして今生での魂が携えている目的をひもとく流れのなかで、もう来生というのが存在しない、という情報が出てくることがある。

どの段階にあろうとも、魂はみな等しくこの世に進化成長をねがって生まれ変わってくるのであり、皆等しく神に愛され、その懐で見守られながら生きるチャンスを授かっている、という真実はけしてかわらない。

智慧ある言葉

ほんとうの智慧ある言葉とはどんなものだろうか。
慈愛、思いやり、希望、光にみちたものだろうか。
可憐で優しく美しく連なる言葉だろうか。

しかし、失意の底にある人に対して希望や勇気を呼びかけるのは時に残酷である。
あと一歩、励ますだけで葛藤から脱皮できる人に、厳しく叱咤するのはあまりにも浅はかである。

ほんとうの智慧とはなんだろう。
それは大きな視野を持つことではないか。
そして、その視野の広がりが相手の行いすべてを許しているかどうか、ではないか。
そうすれば、その言葉は時に辛辣な批判であっても、甘い愛の言葉であっても、必ず豊かさや幸福の波をひきよせるものとなるだろう。

しかしながら、狭い視野から放たれるもの、けして他者の行いを受容しているとはいえないもの。それらはおそらく人を惑わせ、かえって苦しめるだろう。そして、その苦しみの連鎖がやがて愚かな智慧を解き放った者へも因果とてかえってくるだろう。

私たちはいつでも、まず自分自身に昨日よりも、今日、今日よりも明日、自らを磨きあげ、努力していることを課していかなければならない。自らを受容するということ、自らを大切するということと、魂の修行の為に精進を止めないことは同時にバランスよく保つべきだろう。人生はとても難しい。簡単ではないからこそ、人生なのだ。美しいものや優しいもので満たすこと、支え合うこと、慈しみあうことだけでは不十分なのだ。

胎児の記憶

3歳ぐらいの子供が、お母さんのお腹のなかにいた頃を覚えていて、いろいろな説明をすることや、それらが奇妙に一致することはよく知られています。(臨死体験においても、多くの経験者が非常に似たビジョンをみることがあるという研究レポートもあります)不思議といえば不思議ですが、本当に胎児はその状況を記憶していて、生まれてから約3年が経過し、言語を習得した時に「3年前のことを思い出して語っている」ものなのでしょうか。

子供の潜在能力は大人になってそれを失ってしまった今となっては、完全に忘却の彼方なのですが、実に幅広い感知能力を持っている(いた)ようです。生まれたばかりの小さなあかちゃんが、なにもない空間をみて目で追ったりリアクションしていることも、実によくあることです。そういった幼少期の不思議な体験というのは、大人になるとまったく覚えていないもののようです。記憶というのは実に曖昧で、そして頼りないものですね。そして人類はやっかいなことに想像や空想する力を持っています。もっといえば他人の意識に共感し、感知する能力ももっています。いったいどこまでが子供の本当の記憶なのか、そうでないのかは簡単に判別することができないのではないでしょうか。

本当に胎内の記憶なのか、ということについては半信半疑と思っています(やや疑の比重が大きいかな)

とにかくやってみる、ということ。

時に「とにかくやってみる」ということも必要ではないか。
私たちにはとかく考えすぎる傾向があって、あれこれ「やってもみないで思い悩む」もの。
だが、なにごとも結果オーライである。だめなら、それはそれで学びになる。
であるならば、なにも損はないではないか。であれば、とにかくやってみる、というのも悪くない。
特にあまり時間がない方には・・・。

春。

春先には体調の変化を感じる。新しい季節に自然はおおきく衣替えをする。大地に種をまく人達は、この時期天気がきになるだろう。実際、寒い日がつづく。それでも私たちは衣替えをしなければならない。心も体も、それをのぞんでいる。たとえ寒かろうと、やはり衣替えはしたほうがよい。が、こう寒くては風邪をひきそうだ。。。ご注意あれ。

ヒーラーと出会うということ

みずからの未熟さを認める、ということは、時にとても大切だと思う。
心がすごく疲れている時はえてして、そんな自分を認めることができないでいるか、認めることすらも許していないか。
人生は努力も忍耐も必要かもしれない。が、時に自分を甘やかしたり癒したりする必要もある。

自分のこころを他人にすっかり委ねてみるのは案外勇気がいる。
みずからの未熟さを認めることができたとして、そのことを誰かに受け止めてもらえるかどうか。
そこまで他人を信じて自分そのものを委ねられたら、かなり楽になれるのではないだろうか。
委ねる側には勇気や思い切りが必要になるだろう。
受け止める側にはスキルと魂の度量が求められるだろう。
相性も大切でしょう。

いい関係を築けるヒーラー(癒し手)と出会うのは簡単ではないかもしれません・・・

自分を信じること

時々、痛感する。もっと自分を信じようよ・・・と。若いうちならまだしも、この年になると意外なところで自分が歩いてきた航跡を振り返る機会がおとずれる。特に僕のように人生前半とその後でまったく違う仕事をしていると、尚更だ。

そんなおおげさなことでなくともいい。書類をきちんと整理してあったかどうか、とか。過去の自分をもっと信じようと思うことがよくある。探していた書類なんかが見つからない時に、整理しなかった過去の自分を呪うわけだが、整理していなかったのではなく「整理すべき書類なんて存在しなかった」という勘違いだったりすることがある。探しても見つからないわけだ。思い込みは怖い。自分を信じられないのなら問題はないだろう。もし他人を信じられないとしたら、お互いにただ気まずい思いをするだけだ。まず自分で練習しようよ、と思う。信じる練習を。そのほうが気持はポジティブでいられる。

情報の取り扱い。

情報は所詮、情報でしかなくて、人生を変えるのはその人の生きる力です。情報をどんなに受け取っても力にはなりません。もし、情報が過ぎてかえって生きる力を奪うのなら、そのような情報は与えられるべきではないのです。過ぎれば毒にもなる。なにごともほどほどがよいのです。

情報が怖いのは、それ自体は時間の流れにさからって私たちの概念を固定化してしまうことです。固定化した概念は記憶にパターンとして残ります。更にあたらしいパターンが繰り返しインプットされて新陳代謝が活発であればパターンも多様化し、選択の幅もひろがるでしょうし精神の自由は奪われないかもしれません。でも、体力気力が低下していると新しい情報のパターンを広げることが難しくなり、固定化された概念にいつまでもとらわれてしまうことになりかねません。

情報を受取ることに対する免疫ができれば問題はさほど大きくならないのでしょう。免疫をつけることもひとつのトレーニングなのかもしれませんが、そういう余裕を人生で持てる人とそうでない人がありますから、情報を提供する時はよほど慎重な判断が求められます。受け取るほうもリスクですが、与えるほうは倍のリスクを背負います。どんなに愛があっても崇高な行いであっても結果がNGなら罪は罪です。

金子みすず

ここ数日、以前、ご縁のあった人達の名前をあいついで見かける。さほど深いつながりではなかった人達だけれど、皆個性的で光かがやいていた。ずっと昔に縁が遠のいたきりの人もいれば、今でも人を介して近しい人もある。その人達の名前を、あるメディア上で、あるいは知人からのメールでそれぞれに知ったここ数日だった。詳細は言うまい。ひとつはとても残念なお知らせだった。もうひとつも、とても悲しいお知らせだった。かろうじてもうひとつは、祝福すべきお知らせだったことは幸い。

人生はさまざまである。でも、この人達はこれまでも、そしてこれからもきっと多くの人にたくさんの影響を与え続けるだろう。そしてその人達の名前は歴史の記録のなかにけして埋もれてしまうことはなく、永遠に刻まれていくことは間違いない。大きな航跡をえがいて輝く存在感をはなつ生き方をもつ人達。

そんな人達の生き様をみるにつけ、人の人生には本当にたくさんの可能性があることを改めて実感する。ものの大小は重要ではない。発展がすべてなのだと思う。人と比べないで、自分らしい歩みを止めないことだ。

みんな、たまには「金子みすず」をじっくり読もうよ。おいしいお茶の香りでも楽しみながら・・・。

アニマルメディスン

先月の「魂の学校」でアニマルエッセンスの作り方を指導した。アニマルメディスンはとても効果的だ。ダイレクトだしすごくわかりやすい。ひとつひとつの命には一番調和するアニマルメディスンが存在する。それを感じる呼吸法を実践指導することがあるが、自分の体がどんな性質を宿しているか非常に明確に浮上するので、肉体との調和を学ぶにはとても効果的だと思う。北海道の動物でメディスンカードを作ったらきっと素敵なものができそうだ。