変革の波の洗礼

私達は皆、変わらなければならない。何人たりとも、この時代、このタイミング、この変革の波によって洗礼を受けない者はなく、私達はひとりの例外もなく皆、変わらなければならない。剣を捨て、鎧を捨て、一切の戦いを放棄する勇気をもつことを求められる。戦わないとは、他者をすべて受け入れるということ。他者の悪を悪とジャッジしないということ。他者をみる自らの目を、対立の為でなく友愛の為のものとすること。他者にはなつ自らの言葉を、憎しみではなく奉仕の為のものとすること。人生を二度生きるほど、真逆の生き方になるとしても、変わらなければならない。どんなにそれが難しく思えても、今変わる勇気をもたなければならない。

言葉は時に刃となり…

そこに愛があろうと、思いやりがあろうとも、言葉は時に刃となり、他者の心を貫く。因果応報の法則はすべてに等しく働き、刃をむけれらた者と同じく、自らも傷つく。愛のムチという言葉はやがて、虚しく響く時代がくる。すべての行いは、愛によって測られるのでなく、行いのみによって測られるようになっていく。そこにどんなに経験や誇りや慈しみがあろうとも、行いはすべて天によるものでなければならなくなる。誰も言葉を人を支配する為に使ってはならない。そういう時代がもうやってくる。

言葉を刃にしてはいけない。刃をひとに向けてはいけない。誰であろうとも…宇宙の法則はすべてに等しく働く。誰も傷ついてはいけない、誰も人を傷つけてはならない。

今日の徒然:言葉

日本語には言霊(ことだま)という表現があり、言葉に宿る力について日本人は直感的に「なにか」を感じ取っている民族だと思う。無意識に作用する「なにか」がそこにある。だから不用意につかわない言葉がある。人にむけて指さしをするのが失礼だという感覚と同じく、人にむけてけして発しない言葉がある。ネットのなかで拡散してしまうような言葉であっても、人にたいして自分の思いとして発するかどうかは別だ。自分が発したエネルギーは、作用反作用で自分にかえってくる。言霊は発すれば自分にかえってくる。そして、なにか変化を自分にもたらす。

前回の瞑想のワークのなかで、ある言葉を念じてもらった。それは今とても素晴らしい方向転換のチャンスをむかえておられたので、どうしても変わって欲しかった。ご本人が自ら無意識発している負のエネルギーを打ち消してほしかった。その為に言霊を使ってもらった。きっと素晴らしい結果がでると思う。

ネィティブハワイアンの「ホ・オポノポノ」という知恵は最近よく知られるようになった。心がけている方もいるかもしれない。だが、私達はネィティブではない。かれらの知恵は素晴らしいかもしれないが、同じ言霊で私達が乗り越えなければいけない負の意識を打ち消せるとは思えない。でも、そこにヒントを見出すことができれば、なにか素晴らしい言霊が生み出せるかもしれない。瞑想のなかで実践しつつ、取り組んでみよう。ネィティブな人々の知恵に基づいた、ジャパニーズネィティブな私達の未来のための言霊の開発に。

とりつかれること

・もののけにとりつかれる(とり憑かれる)
支配される、憑依される、コントロールされる、自分が消えてしまう。闇。恐怖。本当は、おそれず立ち向かいたい。じゃまものをどけて、力強くなりたい。その気付きを受け取れる。むずかしい気付きだけれど、ありがたい。

・欲にとりつかれる
人間は欲深。欲を満たす為に、自然にがんばる。一心不乱にがんばる。人の為になるもならないも、考えることなく。ひたすらがんばってしまう。欲を満たした時に、はっと我にかえる。欲は気付きを与えてくれる。ありがたい。

・地位、名声にとりつかれる
人の上にたつ。心地よい。名誉をうける。心地よい。人は心地よさにとりつかれる。それがいつまでも続けばいいと願う。守りにはいる。敵をつくる。やがていったいなんの為に自分は生きているのか、考えさせられる。人生のおおきな気付きをうけとれる。だから、ありがたい。

・情念にとりつかれる
自分の愛は普遍だと人は信じる。愛はすべてを超越すると信じる。なにもみえなくなる。ひたすら追いかける。やがて力つき、すべてを失ったと感じる。それでも、肉体は生きようとする。お腹がすき、体も臭くなり、排泄もする。食べられるだけまし、働けるだけまし、明日があるだけまし。なにもないところから、人は輝きはじめる。深い、大きな、気付きをうけとれる。だから、すばらしい。

・仕事にとりつかれる
好きな仕事とおもい、必死にがんばる。天職と信じて、どこまでもがんばる。がんばればがんばるほど、孤立する。孤立しても、人には意地があるから、もっとがんばる。ますます孤立する。孤立は嫌だと感じる。やがて、仕事ってなんだろう、と考えるようになる。ひとは一人では生きられないと悟ることができる。仕事は大事。とりつかれることもすばらしい。けれど、悟れることはもっとすばらしい。

つかれること

疲れる。この感覚があるのは生きている証。ありがたいと思えると、素晴らしい。

足がつかれる。出歩く、働く、動きまわることができる。だからつかれる。

具合がわるい。だるい。全体的につかれる。重苦しい。動き回れない、活発になれない。じっとしていたほうが安全。本能がそうさせる、ということ。守ってもらえているということだから、ありがたい。

肩がこる、あたまがいたい。考えた、がんばった、一生懸命やった。もっとがんばる為には休息が必要というサイン。だから少し休む。そうすれば、またがんばれる、がんばろう、という意欲があるサイン。だから、ありがたい。

なにもしたくない、気力がわかない、考えたくない。無気力。虚無。すべてが無意味。こころがつかれている。心の元気が不足している。本当は、楽しみたいから。本当は、もっといきいきと暮らしたいから。本当の自分を感じている。本当はどうしたいのか、じっと味わっている。だから、ありがたい。

つかれる。ありがたい。

時代は移りかわりゆく

時な流れ、時代は変わりゆく。
でも、私たちはそれぞれ自分の時を生きていく。
すると、自分が置かれている時の流れと、周囲の時代の流れがいっしょくたになり、
果たして自分は時代に取り残されていはしないか、と言いようのない不安におちいる。

でも、時代に乗れたらから、乗れないからといって、自分らしくなくなるわけでなし、
いったい時代の流れと自分の人生と、そもそもなんの関係があるのか。

考え始めるとキリがありません。

でも、それぞれの「魂」はもともと個別の存在。ひとりひとりがユニークな、
たったひとつの魂。他の誰でもない自分という確立した自己を持っている。
自分らしい時の流れを生きるべくして存在しているのです。

ところが、私たちの体は集団のなかでしか生きられないように設計されている。
もともと魂が個の存在であるのに比べ、肉体は集団生活が前提。
その魂が、肉体とくっついている状態が、私たちの実態。

時代が変わりゆく流れを、あるがままに感じながら、
そのなかで魂は自分を磨いていくのです。

この時代を選んだのは、私たちひとりひとりの意思のようです。
でも、この自我は、そのことを自覚できません。
だから、ものすごく流されているような気がする。
自分を見失いそうになります。

いったいぜんたい、自分はなにをしているのか。
自分のしていること、やろうとしていることは正しいのか、
はたまた崩壊に向かっているのではないかと不安にかられる。

不安にかられてあたりまえ。誰しも、不自由な体を通して、
よく見えない目で世の中をみているのですから。

魂の感覚(=スピリチュアルな意識)を確立できれば、そのゆらぎは消えます。
このすさまじい定まらない時代であっても生きやすくなります。
自然体で生きたい、あるがまま自分らしさを保って生きたい、
そういう方は、スピリチュアルな感性を活性化し、目覚めさせる必要がありそうです。

私はそんな皆さんを応援するガイド。
幸い、私には皆さんの魂の本当の姿がみえますから。
お役に立てると思っています。

今日の徒然:らしさ

メルマガにも書こうと思っているのですが、「らしさ」というお話。

婚活をしている男女もたくさんいますので、男らしさ、女らしさ、がかなり大事だということについて、です。

女なんだからもっと気配りしなさい、とか、男なんだからどっしり構えてなさい、なんてことをいうと、なんだか口うるさい母親になった気分になります。つまり、私たちの男であること、女であること、つまり性をもつ肉体をもって生かしていただいている、その根っこの部分にあるのは母性愛だと思います。自分が自分らしく、ということの根源には、母親が自分に体の一部として自分をこの世に産み落としてくれたお母さんの思いやりが、この体中にチャージされている。母性は、私たちの体が本能のままに、あるがまま生き延びていくことを強く願う意識です。(もちろん、他にもいろいろな周波数の母性がありますが、ここでは本能的な母性のお話にかぎります)

こと、波長を肉体に限定しますと、母性は私たちの性が、男は男として、女は女として、種を保存していく為に機能することを強く願う意識です。肉体がもっている周波数はたしかに荒いです。であるがゆえに強いです。母強し、という言葉はここからくるものでしょうね。
このあたりメルマガにはもう少し詳しく書いてみたいと思っています。

ゆくゆくは男と女のストーリーもかけたらいいのですが18禁になっちゃうかな。未成年の読者はいないから、いいか…。

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今日の徒然:すべては気付き

今さら、という感もありですが。
「すべては気付き」である、というお話。

日常、本当にどこにでもあるような出来事に遭遇する。困ったなぁ、仕方ないなぁ、そんな気持ちになる。
とりあえずなんとかやり過ごすことができるとしても、心のどこかで「なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう」と思っている。

あるいは、心が重苦しくてすっきりしない。原因は思い当たる。でも、とても些細なことだから、そんなことでいちいち落ち込んでいられない、とかき消そうとしている。

どんなに些細なトラブルにも、どんなに小さな心模様が曇るような状況にも、気付きはある。

どうしてこういう出来事が起こるんだろう。どうしてこういう気持ちになるんだろう。
その体験、感覚をとおして「自分が変化・成長できるきっかけを頂いているのかもしれない」と考えてみてください。

変化・成長の糧にする為に、私たちは時に苦しいこと、辛いことを味わいます。喜びや嬉しい出来事を通して学ぶこともたくさんあります。でも、逃げたいこと、できれば起きてほしくないことを通して、より大きな、そして大切な学びを受け取ることも多いのです。

すべてに気付きはある。

あらゆる出来事は、みえない糸でつながれています。偶然ということはひとつもないのです。

報われない人生

人一倍努力をし、結果もしっかり出してきた。それなのに報われない。徒労感に襲われてしまう。そんな人生もあります。でも、心のなかに「むなしさ」が宿り始めると、もうそれ以上はがんばれなくなるもの。それでも自分をむち打って努力を続けていくと…心がすりきれて、がんばるどころか日常のこともできなくなってしまうかもしれません。

もし、心や体が病におかされてしまったら…そのことで周囲にすごく迷惑をかけてしまったら、それまでの努力も水泡に帰してしまうかもしれません。だからそうなる前に、その「むなしさ」がどこからくるのか。なぜ報われないのか。どう生きていけばいいのか。そのことについて考えてみるべき「時」というものがあるものです。

もしかしたら自分の人生で「今がその時」なのではないか、もうこれ以上、報われない生き方を続けていくことは誰の為にもならないのではないかと感じていらっしゃるのでしたら…あなたの魂はこれからの人生の進路をどこにむけてかじを切りたいと思っているのかを、ひもといてみませんか。
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幸せと不幸の境界。

「しあわせ」な運命と「ふしあわせ」な運命。幸か不幸か。プラスとマイナス、陰と陽。

私たちの日常は、運気でいえばプラスのそれとマイナスがバランスよく存在していて、両方があわせてゼロになる仕組みがある。強運をもっている人というのは、マイナスの運気に打たれ強いのかもしれない。運命に流されやすい人というのはマイナスの運気に打たれたら立ち直れないタイプなのかもしれない。人によって同じ命題に対する受容力は違う。でも、「人の人生」をすべて俯瞰してみれば、いいことも悪いことも、同じだけやってくる。

そんな根源的なルールがあるとして…

ある人は、日々の不幸な出来事をなげき、自分に降ってくる不運を呪うかもしれない。
でも、別なある人は、どんな不運にみまわれても、その向こうに希望を見失うことなく努力し続けられるかもしれない。

おそらく、どちらも同じような運命のレールの上をあるいている。でもそれぞれの心模様は、かたや曇天続き、かたや曇のち晴れでしょう。いったいその違いはどこからくるのか。

この世に生まれ落ちた私たちの運命は自然環境に強く影響をうけます。翻弄されるといっていい。命は有限。限りある寿命は死にむかう。うまれつき、私たちは死ぬ宿命。それがそもそも怖い。だから生き延びるために生きようとする傾向がある。そこからすべての煩悩がうまれる。それはけしてなくならない。だから煩悩から逃れるには「死の怖れ」を克服するしかない。

なぜ私たちは死ぬのが怖いのか。その怖さの理由は千差万別、それぞれ違う。だからそれぞれの怖さの理由を見つける(これ、すなわち内観ということ)ことが肝心です。