人生の全て

Awesomized by toshisasgawa
じっと空を感じてみよう
そうすれば地球の方角がわかる
体内コンパスを目覚めさせよう
そうすれば一年のカレンダーを体は理解できる

私達の一年は地球の上にいる自分の体ありき
一年という周期を数十回繰り返す
それが人生の全て。

今お伝えしたいこと:おそれと向き合うこと

「おそれ」を克服する、乗り越える。このテーマについては、何度か書いているかと思いますが。あらためて「おそれ」について。特に「自分の本質を探求することへのおそれ」について。

何年も悩んで悩みぬいて、いよいよ煮詰まってご相談にいらっしゃる方がたくさんいます。その内容は皆それぞれ違います。でも共通しているのは、その根底に「魂が持って生まれた命題」が隠されていることです。人はみな、無意識領域でかなり深く、ものごとを考えています。自分では考えているつもりはなく「自然にどうしてもそういう考え方をしてしまう」という感覚があります。もともと私達はかなり、偏った考え方のパターンを持っています。これは無意識領域で、魂がいつも考えているから起こる現象です。それ故に、すごくがんばってしまう、背負ってしまう、歯を食いしばってしまう、本音を押し隠してしまう、流されてしまう、孤立してしまう…などの様々な精神的な葛藤がうまれます。そしてそのことを「人にわかってもらえない」と感じます。また「人に言えることじゃない」とも考えてしまいます。なぜか自然に「そうなるべくしてなってしまう」のです。

人は何かと苦しみます。葛藤が増していきます。でも、どこかで「こんな人生嫌だな」と考えたり「もっと楽に生きたい」と考えます。そんな葛藤をもつことはストレスになり、他者にたいして嫉妬や羨望を持つことになり、時に感情の爆発につながってしまう。そんな時は罪悪感や自己嫌悪に苦しみ、自己存在の否定につながり、消えてしまいたいとも思うようになります。

苦しみから開放されたい、楽になりたい、と思うことはごく自然なことなのに。なにかがブレーキをかけて、それでも苦しい選択をし続けてしまうことがあるのです。その背後には魂の意思が隠されています。

こういった内面の葛藤を人に打ち明けるのは勇気がいります。そして、打ち明けた結果、自分を否定されることをものすごくおそれます。もう精神的にはぎりぎりのところでがんばっているのですから。もっとがんばれとか、あなたが悪いと言われたら、もう立ち直れませんし自我が崩壊してしまうかもしれません。そんなおそれを抱くことが時にあるものです。

けれど、ものごとには限界があるのです。特に私達の心には、もうこれ以上無理、というボーダーラインがあって、それを越えてまで自分に無理強いをすると、心は崩壊してバランスを失います。そうなってしまっては自分を立て直すことができず、家族や社会のお荷物になってしまいます。そうならない為に、もはや選択の余地はなくなっていきます。

おそれとむきあい、自分自身のあり方について、真偽を問うのです。

自分という存在はなにものなのか、なにを目指しているのか、どう生きるべきなのか。答えを知りたいと願うことからはじめてみてはどうでしょうか。望むことがまず知りたい答えに近づく第一歩です。

今、抱えている大問題は、魂が取り組むべき大切な命題とは違うかもしれない

これは長年の経験から申し上げたいのですが。
人は生きていると、様々な葛藤にぶつかります。仕事や人間関係、健康、金銭問題、心の不調和、実に現実的で様々で、それでいて「泥沼のごとくはまって抜け出せない」苦しみというのがやってきます。

しかしながら、そういったおおきな苦しみ、悩み、葛藤の種というのは過ぎてしまえばそれまで。一時的なものにしか過ぎないことが多く、耐え忍んでいるうちは、神頼みもするし、楽になれるならどんな努力でも厭わないと思っているのに。いったん、問題が遠のいて少しゆとりができると…。だらしないいつもの自分に戻ってしまいます。

人間は本当にエゴのかたまりでできています。いくらちゃんと努力しよう、人間を磨こう、魂を愛や光の波動で満たそうとしても、煩悩に勝つことは簡単ではありません。

これはとても厳しい言い方になりますが。どんなに苦しい時でも、悩める時でも、それにとらわれず「自分が産まれてきた本当の意味」について考え、あるべき方向を見失わないでいることは、人としてとても大切なことなんです。

辛い、苦しい、と訴えた時に「それがどうした」と切って捨ててくれる人こそが、あなたに必要な本当の霊的な指導者である可能性が高いと思います。依存したい時に、いくらでもさせてくれる人も、たしかに欲しいのですが(誰だってそんな人が必要です)。それだけでは、魂は磨かれないのかもしれません。

今世から来世にむかって、よりレベルアップを果たす為に必要な心がけはなんなのか

さきの記事で、「より深い鑑定をはじめる」という主旨のことを書きました。それなら、なぜ最初からしっかり掘り下げたアドバイス(鑑定)をしてくれないのだろう?という声もきこえる気がします。

それは、ひとつにはほとんどの方は、とても苦しく、悩んだ上でご相談にみえるので「すべてを一度に受け止める心のゆとりが持てる方は少ない」という事情があります。ひとまず、当座の葛藤や問題を乗り越え、すこし気持ちにゆとりが持てるようになる時期を待つ必要があります。

また、これは非常に絶対的な理由でもあるのですが「その方が受け止め切れない情報を伝えることは、守護霊様から禁止されている」のです。この掟をやぶることはできません。そもそも、ご本人の為にならないのです。時と場合によっては、本当に厳しく厳命される場合もあります。人それぞれ前世が違い、今生の因縁の強さも違いますから、ひとりとして同じ事例はありません。なにをどう伝えるべきか、というのは、その都度、その時のタイミング、その方のお気持ちの状態、さまざまな要因を総合的に判断し、その特の最善のアドバイス(鑑定)としてお伝えしています。

それなら、改めて相談に出向いても、深い鑑定結果にならないかもしれなじゃないか。

その通りです。改めて深く鑑定しても、なにも出てこないかもしれません。でも、上辺だけのお気持ちでご来訪になられたらやはり、準備が整っていないと、情報が止められてしまうかもしれません。結局、私達は前世から、今世、そして来世へと連続した流れのなかに存在しているので、さほど今すぐなにかをしなければ!という切迫した事態に遭遇している確率は低いのです。

それでも、ここ一番、この方は、あるカルマ解消、あるいは因縁解消の取り組みをすることで、大きく人生が好転していかれるだろうな、と感じる場面があるのです。「ものごとには最善のタイミング」が存在します。その時を逃すと、来世に持ち越しになるでしょう。その時は、今なのか、もう少し先なのか、今生ではもうこないのか。そういった流れを俯瞰して見つめるような鑑定から入ります。自分がいま、どのあたりにいるのか、という感触はつかむことができるでしょう。

もう時代はとてもスピリチュアルなことにオープンになってきました。

単に、前世はなんだったのか?というご相談にとどまらず、その先、つまり今生から来世にむかって、よりよいレベルアップを果たす為に、必要な心がけはなんなのか。こういった問いかけをお持ちになっていらしてください。

心からお待ち申し上げております。

より深い鑑定に取り組みはじめます、皆さんの人生の好転の為に必要なことです。

夏至と七夕もすぎて、一年もなんとなく折り返しだなぁという感じがしてきました。季節は真夏といっていい暑さですが、このピークをすぎれば季節はいっきに秋へと移行してしまうのですから。つぎのシーズンにむけての心構えも必要ですね。

光のサロンも、13年目というサイクル。カウンセリングもずいぶん年月重ねてきました。そこから見えてくるものもあり、今後はもっと深く皆様の人生を掘り下げ、しっかりと結果をつかんでいただけるような方向性で取り組んでいこうと考えるようになりました。

その為には、お互いの歩みよりが大事です。

そのうえで私はより深い、鑑定をします。が、その結果、皆様には年月を重ねて取り組む課題が浮上します

これまでは、何年もかかるような宿題を出すにはしのびなく、当座の事態が好転するようなアドバイスに徹してきました。が、これからは「年月がかかってもいいから、深くしっかり人生の好転方法について鑑定してほしい」旨のご依頼であれば、たとえ10年、たとえ一生の宿題が浮上しようとも、勇気をふるってお伝えしていこうと思っています。

宿題といっても…大変な宿題ばかりではなく、意外と楽しんで取り組める宿題がでることもおおいです。そういう方向性であれば、ちゅうちょなくお伝えしてきたのですが。やはり、がんばったり、努力したりが求められることを、しかも年月やりなさいという言い方は、普通はできません。

でも、重いご病気をなさる方、家庭不和が絶えない方、なにをやってもうまくいかない方に関しては、根深い問題が隠されている場合があります

多くの場合は、レイキを習得してもらい、実践し続けてもらうことが改善しました。が、前世からもちこしてきた深いカルマに関わること、先祖の因縁に関わること、土地の因縁に関わること、これらはどうしても、深く鑑定し、長い年月をかけて取り組んでいただくより、好転の手段がありません

さて、具体的には、ご相談にこられる方の自己申告に頼らざるを得ません。よりしっかり、ふかく人生に取り組みたい、年月をかけなければいけない命題があるとしても、しっかり受け入れるつもりである。そういう意思表示をなさってください。これまで何度もお会いしている方であっても、すべてをお伝えしてきてはいません。ご本人の準備が整う日がこない限り、お伝えすることが許されない情報も多くあります。

皆さんからの改めてのご相談、お待ちしてます。

このメッセージの続きの記事も是非、ご参照ください。

今日の徒然:言語の不思議

暑くなってきましたね。水分摂取も大事ですが、暑い時は水分だけ取り過ぎないようにご注意を。体内の塩分が薄くなりすぎると良くないのです。スポーツドリンクも手軽ですが、自分で調合することもできますよ(適度な砂糖と塩と水でつくれます)。電解質が不足すると、体調を崩しますし、仕事にも集中できませんから、無理せず、体をしっかり守りながら日々を乗り越えていってください。

ところで。

世界中に様々な言葉があります。皆さんはどの言語がお好きでしょうか? なんて妙な質問ですが…。この言葉が話せたらいいなぁ、と。個人的にいつもぼんやり思っているのはヘブライ語、タミル語、あたりかな。あとはギリシャ語とか。読み書きでいえばサンスクリット文字がさらっと書けたらいいなぁ。新しいところでいえばなんといってもフランス語。あとは別格でアイヌ語とか、ナバホ族の言葉とか。でも、世の中にはとんでもない天才がいまして。こういった古今東西の言語を何十ヶ国語も独学で話せるようになってしまった若者がいます。本当に人間の可能性というのは、はかりしれないですね。

私達は地上に生まれ変わる前に、とても長い時間をかけてどんな国、どんな民族、どんな社会のなかで生きていくのか、しっかり検討してくるわけですが。何語を話すことになるのか、というのもかなり大きな要因です。魂との相性もあります。英語は世界中に普及しているんだけれども、霊界での評価は、もっとも覚えやすい、話しやすい言語である、とされていますね。コミニュケーションを通して多くを学ぼうと思うと英語を選択するケースはとても多いわけです。

もし、あなたが今、とても苦しいのなら。

もし、今、あなたがとても一生懸命なら、誰かに借りをつくっているかもしれません。
その誰かみえない相手に感謝するこころを忘れないでいてください。

もし、今、あなたがとても苦しく、もがいているのなら、誰かを苦しめているかもしれません。
その誰かみえない同胞に感謝するこころを忘れないでいてください。

もし、借りをつくっている相手も、同情してくれる相手も、思い浮かべることができないとしても、
私にはあなたの孤独が、葛藤が伝わってきます。

私とあなたが永遠に出会うことがないとしても、
私はあなたを感じています。

いかなる時も、いつまでも、
あなたを思っています。

どうしたら新しい自分なりの取り組みが形にできるのか

たとえば、なにか資格を取った。無事に取れた。そこからどうするか。腕組みをしてしまっている。とか。

なにかを始めたい。いろいろな人に会ってみている。だが、これといって定まらない。とか。

そもそも自分がなにかを始めたとして、果たして「やっていけるのだろうか?」とつい考えこんでしまう。
その気持ち、すごくよくわかります。なぜって、2001年からの数年間、まさしく自分はそんな状態でしたから。

当時はスマホの存在すらなく、パソコンも普及しているようないないような。ずいぶん不自由な時代でした。それから、なんの資格も経験もない自分が、誰を頼るでもなく一人でサロン作っちゃって、具体的にビジネスプランがあるわけでもない。本当に突然、唐突になんの保証もなく、定収入もない自営業になっちゃった(その年の春先まで普通の会社員だった)。まさしく右往左往、という状況。精神的にも、まったく寄る辺ない感じ。それに加えて、現実的にやっていけるメドがたつどころか、まさしくカオス(混沌)。なにをどうすればいいのか、さっぱりわからないまま、ひたすら突っ走っていました。

日々、それなりになにかかにかやっていたんだろうなぁ。あまり当時の記憶がないんです。それに、ブログもまだ黎明期で、なにか書きためたものがあるような、ないような。メルマガは発行していたので、それが少し残っているかな。メルマガといったって、読者さんはそれこそ日本中に散らばっていて、相手の顔もみえないのですから。よくまぁそんな状況から、ここまでやってこれたものだと思います。先見の明があったんでしょうか。マグレといいますか。まさしく博打打ちの人生です。失敗したらどうするつもりだったんでしょうか(笑) もっとも、今が成功している状態といえるかどうかもわかりません。明日をも知れぬ我が身です。でも自分でお仕事をしている人はみんなそうなんです。長い会社員生活を離れて、もうすでに13年目なので、こんなに違うんだということが骨身にしみます。農家さんでも、経営者さんでも、自分の身ひとつで暮らしを守っている人の立場と、公務員や会社員の立場はまったく違います。見える世界も、背中で感じる重さもまったく違います。どっちがいいということじゃなくて、ただまったく違うということはいえます。両方を体験してみて、どっちもいいし、どっちも大変。簡単な話じゃありません。

がちがちの公務員の方とか、団体職員の方とか。立場的にしっかりした位置にいらっしゃる人達にとっても、自分なりの取り組みを形にするのは大変だし難しいです。そもそも副業がダメな場合も多いですから。

そして、自分でお仕事をしている方にとっても、新機軸を打ち出していくのは、本当に大変。特にこれまでの自分にはなかった、まったく新しい取り組みに挑んでみようという方にとっては、未来の敷居はとても高いものです。

自分の場合を振り返り、なぜここまで無謀な冒険ができたのかな、と考えるとですね。

「そこにしか自分の進むべき未来を見いだせなかった」からなんです。
言いかえれば、もしそこに自分の新しい未来を構築できれば、思い切りシフトアップできるに違いない、というイメージが持てたんです。例えば、山登りが好きだとして。しょっちゅう樽前山とか登っていい眺めを楽しんでいたレベルの自分が、です。おもいきってヒマラヤに挑むようなものです。いったいどうやれば登頂できるのか、まったくわからない。わからないけれど、もし踏破できたら自分はすごく変われるに違いない。そして、心の深いところに是非、そこに到達してみたいという願望があるのに気付いてしまった。そんな感じでした。

自分が自立するきっかけになったもの。それは深い気付きだったんです。

自分はなんの為に生まれてきたのか。そこを掘り下げる時間がすごくありました。会社を辞める数年前からはじまり、サロンを作ってからの数年も合わせて。ものすごく長い時間、深く自分と向き合っていました。その年月はざっと7〜8年ぐらいです。瞑想ものべにするとものすごい時間取り組みました。かなり苦行もしました。荒行といえるレベルでやりましたので、かなり危険もありましたし…。そんななかで、だんだんぶれることがなくなっていったんです。やっぱり、やりたいようにやらないと悔いが残るのだろうな、と。その感覚はすごくはっきりしてきた。そうなると、もう自分を偽ることができない。

私達は現実を生きているようでいてそうではない。実際には真実の自分を体験しています。つまり、現実に自分が体験することはすべて自分の魂が学びを受け取る為に、現実という仮想の世界に投影されたドラマにしか過ぎない、ということです。この現実の世界は私達が肉体という殻を脱ぎ捨てた瞬間、幻のように過去のなかに流れ、消え去ってしまうのです。

皆さんが、どのような束縛のなかにあり、どのような苦悩や葛藤のなかにあっても、それらはすべて幻想であり、一時のドラマのなかにいて「あなた」という役を演じさせられているに過ぎないのです。あなたの周りにいる人もすべてそれぞれの役を演じているだけです。肉体を離脱すれば、本来の姿に戻ります。その時になれば、ああこういう事だったのか、それならもっとああすればよかった、こうすればよかった、とらわれる必要はなかったのだとわかります。でも、それでは遅いのです。未来を先取りして、その感覚を味わうことはできない。けれど、内観をしていくことで、現実のとらわれを軽減できます。そして、しっかりと魂が携えてきた、前世から今世への大事な魂の課題が浮上します。

まず、自分を知ることです。自分の過去を知り、現在を知り、未来を知ること。魂は普遍性を持っています。前世から、今世を経て来世までどこまでも突っ走っていくのです。

あなたが、なにかにとらわれているのなら、自分で取り組むのもよし。誰かの力を借りて、どう取り組むのが最短ルートなのか道標を得るのもよし。目指す山頂が高ければ高いほど、道は険しくなります。特殊な経験をもつガイドが必要になるでしょう。

私は、おそらくこれを読んでいる皆さんの、もっとも高度の高い山頂を目指す時、その頂上の直下まで同伴できる人間です。でも、ピーク(山頂)を踏むのはあなた自身です。自らの意思で、自らの努力と精進によって、そこを目指してください。必要ならば、必要なだけ、サポートできます。

モノ言わぬ人々(2)

モノ言わぬ人々は、なぜ言葉で語らないのか。

それは言葉がとても不完全だということを知っているから。
言葉が持っている意味は人によって違う。誤解が生じる。そして、どちらかが、あるいはお互いが傷つく。

モノ言わぬ人々は、以心伝心、テレパシーで他人の心を読み取れる。だから、自分の言葉でもし相手が傷ついてしまうと、その刹那、罪悪感を感じ、もう会話を続けられなくなる。なんとかその場を収束する為に、自らが悪役を引き受けることになる。罪のない罪を認めてしまえば、それ以上誰も傷つかなくなる。その場をとりつくろったり、みえすいた嘘を言ってしまう。それは「そうするのが最善だ」という感覚がある。選択することができず、ただそうするしかない。もの言わぬ人々はそうやって生きている。

人の心は読めても、自分の心を読んでくれる人がほとんどいない。だから、とても孤独だ。

でも、もうすぐ…彼らの時代がやってくる。もうすぐ…(でも、それは何年、何十年、いや、もっと先なのかもしれないが…)

モノ言わぬ人々

ここ最近、とても増えた相談ごとというのが、「相手の考えていることがわからない」というもの。
この場合の相談者は女性。逆はほとんどない。

女性が、パートナーである男性(夫婦であったり、恋人であったり、恋人未満だったり関係性は様々)の考えが理解できなくて、どうすれば関係性が改善するのかとご相談にみえる。こういう場合の対応はたったひとつ。黙々と、男性側の考えていることを説明する。

長年の修行と経験の積み重ねの成果で、モノ言わぬ人達の内面になにがあるか、手にとるようにわかる。ただ、感情や価値観だけならまだしも…。こうと決め、けして人には見せないと定め持ったものがある。そこを説明して、受け止められる女性もいれば、そんなはずはないと否定してしまう方もあり…関係性がそこからどう発展するのかしないのか。実に様々。

ただ、ふと思うのだ。

そういう男性は以前からたくさんいたはず。なぜ最近、こういう相談が増えたのだろうか?

推測するに、女性側の意識が変わってきたのではないだろうか。言葉のない言葉を読みとり、感じ取ってあげたい。そこまでして歩み寄り、支えていきたいと考える女性が現れるようになった。そういうことだろう。

モノ言わぬ男性たちにとっては良い流れ。だが、モノ言わぬ男性の心に、どう歩み寄ればよいのか。試行錯誤がはじまった女性にしてみれば、苦難の時代のはじまりなのか? あるいは、心と心が言葉を超越して絆を深められる、波動の時代になったのか。

私達の未来の子孫は、もはや言葉を超越し、波動で会話する時代になるのだろう。それができるようになる人、いつまでもできない人で、住まう国家や地域を選ぶことになっていくのかもしれない。さて、日本はどちらにすすむのか。