神無月二十四日の雑記:ミカエルと共に

長崎を訪問している知人から素晴らしい画像が届いたのでおすそわけです。ミカエル天主堂の本日の空模様。この空のエネルギーがとても清々しく感じられました。

ミカエルの名を冠した建物といえばモン・サン・ミッシェルが有名です。長崎の、しかも小さな島にこのような建物があるのは不思議です。強い信仰をもつ人達がそこに集まったのは、いかなる輪廻のいきさつがあったことでしょう。時空をこえたドラマがかいま見えるようです。

魂は生まれかわっても、前世で持っていた信仰を失うことはありません、それどころか、より強め、深めていきます。信仰が強くなればなるほどその人達の祈りは清められ、光の波動と共鳴しはじめます。そのような土地、建物には本当に真実の光が宿りますし、訪れる人々を導く、高次元との通信施設のような役目を担うようになります。ここもしだいにそのような波動を放ちはじめるのでしょうね。

その為に、多くの人達の無償の行いの積み重ねがあったのです。みなさん、本当にごくろうさまです。おかげで私達は今こうして高次元の光を地上に広げゆく一端を担うことができています。

これからも光とともに歩んでいきたいと思います。
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高くて遠い青い空の下で生かされている私達

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空をみても、心が晴れない。そんな日々が続きます。
こんなに青いのに、こんなに広いのに。自分の心はそうじゃない。頭上に広がっているのに、すごく高くて遠い青空。

なぜみんなの心が晴れないのかなぁと、毎日そればかり考えています。
自分になにができるのかなぁと。

でも答えはみつからない。
きっと、特効薬はないんだと思います。

だってひとりひとりの悩みはみな違うのだし、
心は目に見えない形のないものだし、日々の生き方でどんどん変化していってしまう。
外から直接ふれてあげられない。

たとえ自分がひろくておおきな青い空のようになって包んであげることができたとしても、
やっぱりその人の心は晴れないのだろう。

神様にもできないことがあるんだと思う。
だから、みんな神様に見離されたような気持ちになっているのかもしれない。

この地上が楽園になる日はずっとこないかもしれない。
でも生きていかなきゃいけないから。

雑草のような強さが欲しいよね。

Quantum nonlocality〜「祈りの力」

誰かの為に祈ることで、その人の人生を変えられる。

そのことを知っていますか?

こんなことをいうと、スピリチュアルはお気楽主義などといわれそうです。
でも、これは最先端の量子力学で現象として確認されつつあり、いずれ祈りの力が実証される日がくるかもしれません。

自分が思えば未来は変化する。誰かのことを思えばその人の意識や行動が変わるのです。
ということは、私たちは日々、誰かの強いエゴに思考をコントロールされている可能性もあります。
瞑想を通して雑念をふりはらい、良い思考だけを維持することで人生が好転することを瞑想を続けている人達は気づいています。
昨日までは運命は宗教が神の教えとして説いていたことですが、いずれ科学者が運命論を語る時代にシフトしていくことでしょう。

ちなみにこの原理を提唱したのはアインシュタインです(Quantum nonlocality)。

なりたいものになれる

誰だってなりたいものになれる。
だって、そう思う心は神様からの贈り物なのだから。

なりたいものに、ただなれると信じて、
明日の自分にただわくわくしていればいい。

けして未来の自分を疑わず、人に惑わされず、
ただなりたいものになれると思っていればいい。

どうすればなれるのか、なんて絶対に考えない。
考えることは悩むことだから。悩むことは神様の望んでいることではないから。

あなたは、きっとなりたいものになれる
ただそう信じて、おもいきり光を浴びつづけていればいい。

レイキとレイキではないエネルギーのはざまで

これはもしかすると以前、どこかで書いたのかもしれませんが、あまりきちんと意識して書いたことはないような気がします。

私が「レイキ」と、「それ以外のエネルギー」をどう使い分けたり感じ分けたりしているのか、についてです。これを説明するのはとても難しくて、中途半端に書いても誤解を招くばかりだし、意図的に伏せてきたともいえます。でも、それっぽいことを書いてみたり、レイキではないエネルギーワークをやってきたりしているので、なんとなく気づいている人は気づいているだろうし、そんなの最初からそうだと思っていたという人も多分いらっしゃるでしょう。

西暦2000年にレイキを学んだ時、これは素晴らしいものだと実感しましたが、それ以前から長年のさまざまな修行と神秘体験を通して感じていたエネルギーと比較している自分がいて、その違いはなんだろうとずっと研究してきました。最近になってやっとある程度の答えが出せるようになり、ここまで理解が深まれば教えたり伝えたりしていくうえで支障はないかなと思えるようになりました。ただ、そろそろレイキとそうでないものを分けて扱っていかないと、学んでいる皆さんに混乱を与えたり、誤解を招くおそれも出てきましたので、少しずつですが整理していきたいと思うようになりました。

私にとってはレイキはとても有効な手段でした。それそれによって素晴らしく心身が安定し、健康を回復しました。それは「めざましく変化した」といえるほど劇的でしたし、嬉しく有り難い体験でした。でも、私にとってレイキは「幾つもあるうちのひとつ」の手段でしかなく、これだけですべて満たされるということはありませんでした。

元々、私は霊的な感性があまりに鋭くて、森のなかにはいれば精霊の存在がわかるし自由に会話もできていました。人の背後にいる見えない存在たちの気配もいつも感じていましたし、自分が死んでいることに気づいていない方達ともたくさん交信をして、この地上のエネルギー世界をたくさん味わってきたのですが、そういった感受性故にとにかく疲れれていました。普通に生きることができないレベルまで神経を消耗しつつあったんです。それで厳しい修行を重ねていくなかで耐性を身につけました。その時に、たくさんの神秘的な技法(印やマントラ)を使ったんです。私は修験道で学びましたので、そこには古来からの秘技がたくさん伝えられているんです。それをひとつひとつ実践しながら自分に必要なものを選り分け、使っていくうちになんとか「自分と外側の世界」の境界線を確立することができました。そこからやっと宇宙とつながるというか、光の世界とつながるというところにフォーカスできるようになっていくわけです。その頃からアカシックレコードにアクセスできるようになりました。また高次元の意識(たとえば大天使たち)ともつながれるようになり、この世界の真理や、私たちの魂の由来について、神々の世界について学ぶようになりました。その探求のなかで、魂の輪廻の由来について無数の情報を受け取れるようになっていったわけです。

ですので、私のなかでは世間一般にいわれる「霊感」という感受性と、魂の輪廻の由来をひもとくアカシックリーディングに代表されるような「スピリチュアル」な感受性は、別々のものなんです。この段階ではっきりさせておきたいのですが、どちらの感受性もレイキでは活性化しません。根本的にレイキという技法がもたらす作用だけでは、霊感も、スピリチュアルな感受性も開花はしません。それぞれ相当な訓練も必須ですし、持ってうまれた資質も要因になります。まったく違う次元のものです。

私の定義では「レイキ」は心身をすみやかに浄化する為の本当に素晴らしいツールで、それ以上でも以下でもない。

霊的な世界と交信する人は、その為に自分のまわりに結界をつくることを学ばざるを得ませんし、霊感が弱ったり疲労した時に、それを回復する為のパワースポットを知らねばなりませんし、実際にそこに行かなければなりません。

アカシックレコードにアクセスしたり大天使と交信する人は、その為に必要なあらゆる環境を作らねばならないし、その感覚を維持する為に必要なあらゆる技術を磨かなければなりません。

それで私は霊的な感覚を守り、磨く為にパワーストーンをもっぱら用いることにしました。また、アカシックレコードにつながり大天使と交信する感覚を守り、維持する為に「光の技法」を学びました。そしてこれらを全般的に維持する為にレイキをほぼ完璧に使いこなしていると自分では思っています。私には必要なものすべてが必要だったのです。そして必要なものがひととおり私の手元に集まってきた、というより「与えていただけた」のです。どれかひとつ欠けても、今の私の能力を維持することはできなかったでしょう。

自動車がタイヤ、エンジン、ボディ、電子機器などの集合体であるように、私にもたくさんの技術が必要です。レイキは車でいえばタイヤとエンジンのようなものかもしれません。これがないとなんにもできなかったかもしれません。それぐらい素晴らしく有効なツールです。これからも磨き、使い続けていくでしょう。でも、ナビも必要だし、明るいライトやサンルーフも必要なんです。それらはレイキには含まれていない、けれど私には必要不可欠な技術なんです。

親には親の、子には子の葛藤がある

春休みで実家に帰省中の大学生が親御さんに連れられてご来訪になられた。親元を離れて一人暮らしをはじめるうちに、少しずつ人生について深く考えるようになったのだという。そして漠然とした不安にもかられると。

その子にはこれからの20年がどんな人生になるかを説明し、なぜそういう流れが用意されていたのか、なにを心がければよいのかを説明してあげた。その子にとっての人生の調和とはなにかをできるだけ具体的な例を取り上げたり、注意すべき項目を箇条書きにしたりして1時間しっかりレクチャーしてあげられたと思う。おそらくもうこの子は少なくともこれからの10年はぶれることなく生きていけるだろう。そこから先、また迷ったりすることがあれば…その時はまだ再会することになるのかもしれない。あるいは就活の時期にまた連絡があるかもしれない。

帰り際、親御さんともちょっと立ち話をした。いろいろご不安もあったようだけれど、なんの心配もないということを強調しておいたので、だいぶ安心していただけたのではないだろうか。

親は親で子を心配し続けるものだ。そして子は子でそんな親の気持ちをどう受け止めていいのか迷うもの。いずれわかることではあるけれど、わかってしまえば楽になれることもあるから。そこをお伝えできた時はよかったと思う。
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20年分も未来を透視してどうなの?はずれたりしないの?とご心配くださる方もいらっしゃるかもしれないけれど。こういう情報をお伝えすることについて私のなかにはなんの不安も怖れもない。だってこの力は私のものではなく、神様の愛だから。みんな愛されている。ただそれだけのことだから。お伝えできてよかったと心から思うし、ご相談者の未来が充実するように、共に見守っていきたいと思う。ただそれだけです。

癒えるには時がある

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長くヒーリングとカウンセリングを行っていて、最近では過去数十年にも渡る心の抑圧を解放するような取り組みができるようになってきました。そこに至るには、長い時間のカウンセリングのみならず、レイキの技法を用いながら独自のアプローチでヒーリングを行い、ご本人にも自主的にいろいろな取組みをしてもらうことで、最終的には自然に癒えていきます。

心は目にみえないものですが、感覚を磨いてくると手にとるようにわかるようになります。が、癒しには段階がありますのでけして急かすことはできない。だから、一律これこれこういう技法で何回のヒーリング(あるいはカウンセリング)で、過去のトラウマは確実に治りますよ、という言い方はけしてできません。その人の内面から自然に解放が起きていくものなので、その時々のタイミングにあわせた最適な取り組み方を提供していくだけです。

こういう自分の仕事をふと「樹医」さんのようだな、と感じることがあります。弱った樹木の土壌や環境を変えたりしながら自然に回復するのを何年もかけて待つように、人の人生には大きな流れがあり、そこから枝葉末節に細かく分岐していきます。でも大局を見ていないと、癒える力をうまく引き出すことができないことでしょう。

これまでたくさんの癒しの技法を垣間見たり学んでみたりしてきました。がいずれも断片的なもので、大局的にその人のあり方を根っこから治癒させる方向付けをもったセラピーに出会ったことがありません。おそらく、ひとつの技術だけでは無理なのでしょう。幾つものアプローチと技術とを駆使しながら、あとはタイミングを見計らってヒーリングを行ったりしていくと良い結果が自ずと導きだされます。

タイミングは宇宙との共鳴もありますので暦を星の運行の影響も考えながら読み取るようにしています。そうしていくなかで、人生では起こるべくして様々な出来事があるのですが、それらひとつひとつの答えを導きだしながら、過去の癒しにも取り組んでいく。

人生は過去からの流れが未来につながっていきます。未来をより上向いた方向にシフトさせたい場合は、過去からの悪影響を正すことも必要なんです。でも、人生には運命的に定められたイベント(出来事)も用意されているので、それを変えることはできない。けれど最善の準備をすることはできます。なにが起きるとしても最善であれば、きっと良い結果がでると思います。過去をリセットできれば、かなり人生の流れは上向いていくと思います。

私達は、日々多くの試練に向き合わざるを得ません。試練のない人生はないことでしょう。でも、向き合うべき試練と、向き合っても無意味なものもあります。過去の影響が、よく無駄な試練を引き寄せることがあるので、余計な枝葉は切り落としてしまったほうがよい。それだけでも前に進む速度が加速したりするものです。

皆さんに最善の癒しがもたらされますように、私なりに積み上げた技術と経験をすべて活かしてお手伝いさせていただければと願っています。

看取りに際して

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「看取り」を通して受け取れる糧はすごく大きいと思います。人の命は重いですから。人生を終える時、魂は数十年の人生の決算をむかえます。地上を離脱する本人にとっても、大きな節目であることは間違いないのですが、看取る側にとっても大切な時です。

私はふりかえってみると、あの世にかえった魂との関わりは多数あったし、看取りに関わる機会も人よりは多いほうだったような気がします。そして、今では看取りに関連する様々なご相談をお受けするようになりました。もとより、あの世に帰った魂との交信役としてカウンセリングの世界に足を踏み入れたわけです。でも、実際に蓋をあけてみると、ご相談者は、看取りを終えた方よりも、これから看取るという方や、まさに看取りの最中の人達が多いのです。命の炎が燃え尽きた後は新しい時が流れ始めるのですが、看取りの間というのは時間の流れが止まります。どうしてこうなってしまったのかという悔いや、受け止めきれない感情があふれ、自分を保つことが難しくなるものです。

いままで看取りに関連するご相談のなかで、多くの「昏睡状態」にある患者さんの魂と交信をさせていただきました。まだ肉体は呼吸をしているのだけれど、ほとんど意識がない、脳波も振れていないという状態の方とでもコンタクトはできます。肉体から離脱しているわけではないのだけれど、かといって体を通して意思を表示することはない状態であっても、魂はその状況のなかでなにかを感じたり考えたりしていることもあります。そんな状況でご親族ができることはすごく限られていますが、横たわっている人が「本当はどういう状態なのか」がわかると、心の整理もつきやすいようで、今できることはなんだろうか、と考えられるようになります。

私たちは生きていれば必ず近しい人達を順番に看取っていかなければなりません。そんな節目に迷った際には、どうぞご相談にいらしてください。

生まれ持った喪失感ありきの人生について

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私たちは、根本的な「喪失感」を持って産まれてくるので、欠落したその「なにか」を一生かけて探し求めているといってもいいでしょう。ただ、その「なにか」は寿命が尽きた時におのずと取り戻すことができるものだと思います。私も、実際にはまだ死んではいないのだけれど、命の炎が燃え尽きた直後に起きる体験については、一度リアルにそれを味わっています。だから死に対する心構えができてしまっているようなところがあり、だからこそ生きてこそとも思うようになりました。それは言葉にするとあまりに貧弱でまったく違うニュアンスになるのですが、それでもわりと知られている言葉で「至高体験」と表記しましょうか。

至高体験といっても、主観的なものであって、自分でそう思い込んでいるだけという可能性だってありますけれど。今のところ確信はしています。それ以上の幸福感や完全に満たされている感覚は、この世には存在しないだろうという体験です。それはあまりにも素晴らしすぎて、そしてあまりにも完璧すぎて、私はもう一生分の光をいただきました。それを味わう前は、そんなことでもなければ生きている甲斐もない、などと嘆くような気持ちがありましたが、その直後からはもう生きている間は結構です、という気持ちになり、それが十数年続いていますので、おそらく私はもうそんな体験はせずともこの人生は精神的には喪失感に悩まされることはなくて済むと思っています。どんなに辛いことがあっても、苦しくても、私の意識のなかに「光ありき」という感覚がすっかり定着してしまっていて、闇に落ちることがないんです。
これは非常にスピリチュアルな体験に違いありません。その後は霊感がさらに研ぎ澄まされてゆきましたし、ゆらぎもなくなりました。様々な情報をキャッチする感受性も安定して、霊的な能力については十分に覚醒しきった感がありました。が…。

その反動で、体調を崩しやすくなりました。風邪をひいたり、お腹をこわしたり、自律神経の不安定さから集中力を失って、何日も仕事ができない状況にもなりました。長年、さまざまな薬を服用していた為、解毒も必要になり、肉体レベルの浄化が休むことなく連日のように起き続けました。数年間はそんな状態が続き、一時は全身にひどいアトピーがでたこともあります。

いかに精神的に満たされているといっても、私たちの肉体は、日々の休息と充電が必要です。神経回路も肉体に属しているのですから、肉体が活性化しなければ、いくら精神を鍛え、霊的な回路が安定したところで、現実は前進することはできません。それからは、できるだけ体を休めることや、体(五感)を喜ばせる為の充電も心がけるようになりました。
霊的な至高体験は一生に一度で済むようですが、どうも肉体は一定期間毎にしっかりと高揚感を与え、充電をしつづけなければならないようです。肉体にも至高体験に近いものがあるのでしょうが、私はまだその部分では最高の体験には至っていない気がします。スカイダイビングなんかすさまじい高揚感を体験できそうで、憧れなくもないのですが。小さな飛行機に乗って、また発作が起きるのも怖い(笑)。深い海も恐怖心があるので潜るほうもだめ。お酒もあまり飲めないし。あ、あとは音楽がありましたね。素晴らしいステージが体験できれば、相当高揚感を味わえるのでしょう。ただ、それはそこにいたるまでの準備と努力も必要になりそうで容易ではありません。それに、そんなにノリノリのステージは私の持ち場ではないですしね。というわけで、今のところは近所の温泉に出向くぐらいが手頃なところ。でも、この肉体面の充足方法については、体力のあるうちにもう少し探求していければいいなと思います。山歩きか、川下りを改めて掘り下げるのもいいかな。ただちょっと危ないこともあるのでリスクは避けたい。でもリスクがあるアクティビティって高揚感がすごいんです。だからやめられないのでしょう。

体を通して最高の至高体験というものを味わうことができれば、すべての細胞が活性化して若返ることもできそうです。五感が研ぎ澄まされ、五感と精神の調和を通して霊的な覚醒がうながされる場合もあるでしょう。まだまだ開花できるものが、私自身の肉体と五感のなかにもたくさん残っているような気がします。

神様が設計して創りあげた肉体には、無限の可能性が秘められているはず。上手に活性化できれば、精神との調和も、霊的な感性との融合も、加速させることができると思います。スピリチュアリズムだけでなく、生命科学や東洋医学、ネイティブな人達の叡智と融合していくことで、人間の霊的な本質は、この地上でもっと素晴らしい発展を遂げることができるはずだと私は信じています。人間がどんなふうに変化を遂げていくのか、これからの未来が本当に楽しみ。自分の命があるうちはできるだけ見届けたいし、そう遠くない来世にその後の進化を確認しに地上に降りてきたいものです。

季節感を感じながら生きることの大切さ

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この数年間は季節感をとくに大切にしています。体調や心身のバランスだけでなく、仕事や人間関係など、ほぼありとあらゆるアドバイスをする上でも季節の移り変わりを見据えて未来の展望をお伝えすることが増えました。

もし、これから先、なにかしっかりと結果をだしたいと思っている方は特に、目先のことだけでなく来年の春や夏のことを考えましょう。できれば、更に翌年の春から夏にかけての流れも思い描けるようになってください。私たちの人生は「体」あってこそであることは言うまでもありません。そのうえで感じたり、考えたり、判断したりしています。魂だけで生きている人はいません。心だけで生きているのでもない。やはり、自然の移り変わりのなかで息づいている「体」があり、その枠のなかで私たちの意識と精神が活動できるわけです。

今だけでなく、来年、できれば再来年までの人生の流れを見つめながら、今必要なことはなんなのかを考え、選び、日々成すべきことを積み重ねていく。人生において、なんらかの結果を出そうとするとこれが一番着実な方法だと思います。

今は冬の入り口。だけれど一年の始まりのサイクルに向けて、しっかり準備を整えていく時期でもある。この時期に、来年一年の流れを思い描いておくことはとても大切です。

もし、今年を振り返ってあまり良い結果が出せなかったと感じている方は、今年だけではなく昨年の流れはどうだったのか、一昨年はどうだったのかも振り返ってください。過去は3年ぐらい遡って反省するようにすると、今年はあまり良い流れではなかった理由がみえてくることがあります。

来年の為に、今この時期になにをしたらいいのか。再来年、もっと結果をだす為には、今、そして来年にむけてどんなことを心がけていけばいいのか。体のこと、メンタルなこと、人生の方向性のこと、いろいろなことを私たちは同時に考えて判断していかなければならない。生きるってなにかと大変。ぼんやりしているとあっという間に何年も流されてしまうこともよくあります。けれど、人生は後戻りできないことはもちとん、繰り返す余裕すらないものです。

あなたの人生の時間は限られている、ということを改めて意識してください。そして大切にしてください。今生はただ一度きりの貴重な人生なのですから。来世があるさ、なんて油断はいけません。今を尽くさなければ来世にも影響があるのですからね。