それぞれの学び

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よく敷居が高くて、といったような事をおっしゃる方がいます。
そんなことはありません。でも、そう感じてしまうのでしょう。

敷居なんてものは、本当はどこにもありません。
あると思うから、ある。
でも、実際にはないのです。ですから、そんなものはないと思って気軽に学びにきてください。

それぞれの学びがここにあります。
考えても、足踏みしても、タイミングをはかることも学びにはならないでしょう。

ものごとにはタイミングというものがあり…と、実感されている方、そう意識している方、そうなんじゃないかと漠然と思っている方、さまざまな解釈があるかと思います。たしかに、きっかけ、機会、流れ、いろいろな言い方で私たちは「ご縁」というものを理解しようとします。でも、それすらも「敷居の高さ」と同じで、自我がかってに想像してつくりだしたものといっていいでしょう。

神の意思は、すべてのタイミングに等しく存在します。あなたがその気になってもなれなくても、学ぼうとする意欲があってもなくても、あなたはすでに受け入れられています。

神の前では、皆ひとしく、人生という学びのレッスンを受けさせてもらえています。

あなたの周りには障壁がたくさんあるのかもしれませんが…

でも、あなたと神様の間には、壁なんてひとつもないのです。最初からなかったのですし、これからもずっとそんなものはないのです。
ただ、あなたの学びの良い機会のみが、日々常に連続して存在し続けているだけです。
あなたができると思うだけで、あなたは学べます。変化できます。いつでも。何度でも。日々、無限といっていいほどの機会にわたしたちは満たされているようですよ。是非、試してみてください。

なぜ苦しみはなくならないのか

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なぜ、日々苦しいのだろうか。
なぜ、何度も苦難が繰り返しやってくるのだろうか。
いつになったら楽になれるのだろうか。
いっそのこと・・・

といったように、わたし達は、いつも苦しいということに、正面から対峙してしまう。
そして、とらわれ、もがき続けるものです。

でも、わたし達の魂は自分の人生に対して「なぜ苦しいのか」という問いかけをしないんです。
逆に、魂は「いかに生きるか」しか考えていないのです。

誰しも、苦しむ為に生まれてくるのではない。
生きる為に生まれてくるのです。

だから、生きていることは、有り難い、かけがえのないチャンスなのだ、ということを是非意識してほしいと思います。

誰からも愛される生き方

自分は愛されるに値する存在なのかな?とすぐに考えてしまうあなたは、
きっと、愛される為の努力が必要だと思っているでしょう。
皆に迷惑をかけないように、自立した存在でいなければいけないとも思っていることでしょう。
自分にたくさんの条件を課して、疲れてしまっているのではありませんか?

あなたが誰からも愛されるには、なんの努力もいりません。
いますぐ「愛される為の努力」をやめましょう。

あなたに一番、必要なのは「愛されようとして、力んだり、がんばったりしない」生き方を選ぶことです。

それからもうひとつ大切なことは…
人の思いやりや、親切にふれた時に、「受け取れないこと」をけして申し訳なく思わないことです。
もしも「ありがとう」と思えなければ、それはそれで構いません。
誰かが親切にしてくれた時、自然に「うれしく、ありがたく思えた時にだけ」素直にありがとう、と思えればそれでよいのです。

愛される為の努力をやめましょう。
人の優しさに「応えよう」という気づかいもやめましょう。

あなたに必要なのは、無条件で愛され、心から素直にありがとうと思える体験だけなのです。

あなただけの愛し方

あなたには、あなただけの愛し方があります。

愛する努力をやめましょう。
なにも気負うことなく、心はりつめることなく、あなたの優しさはきっと届きます。
常に愛そうとすることをやめましょう。
あなたの心がおだやかに、自然に、思いを伝えたいときだけ、手をさしのべればいいのです。

誰もあなたの愛が小さいなどとジャッジしません。

あなたが元気がなくとも、誰も遠ざけたりしません。

あなたはあなたのままでいい。あなたらしい人の愛し方をみつけてください。

日本人でプライドを保って生きることの難しさ

プライド(誇り)を保てないのならばハラを切ったのが日本の武士道だったようです。
魂はプライドを磨く為に存在しているともいえます。

人生はプライドを感じながら更に高めていくもの。ただ、その高め方がこれまた千差万別。ご飯をつくってあげたり、なにかを指導したり、祈ったり、瞑想したり、ありとあらゆるプライドの磨き方があるものです。皆、一様でなくそれぞれのスタイルをもっていますが、向かうところはひとつ。自分を磨く、ということに尽きるようです。

プライドは磨きがかかればかかるほど、これまた傷つきやすくなります。だんだん生きることが難しくなるのです。他人にプライドを折られることに耐えられないこともあります。その時、魂は撤退を余儀なくされるのです。撤退といっても実際の手段もこれまた千差万別です。関係性を遠ざける程度なら軽いほうで、精神的に閉じこもってしまったり、肉体的に存在を消そうとすることもあります。

時代が時代ならもうこれ以上いかようにもプライドを保ちようがない場合に、そこで人生を閉じる。そういう選択を昔の日本人は実際に行っていたのです。ただそれは一部の階級の人に限られたことで、一般庶民にはそれも容易ではなかった。

日本という国で過去をいきた魂の多くは、けして上位の階級ではなかったのでプライドを保つことは難しかったことでしょう。それを保つ為の選択がある、という考え方を持つこともなかったでしょう。

なんにせよ、私たちがこの地上で前進し続ける為のエンジンは、プライドを磨き続けられるという希望なのです。それが断たれた時に、私たちは前進できなくなってしまいます。その時になにを選択するのか、これはとても難しいことです。この時代、私たちはかなり混沌とした社会性のなかで生かされていて、望まないとしても一人ではないのですから。プライドの高い魂は自分の選択に他人を巻き込むことをよしとしない傾向が強いですから。希望を絶たれるとどうしようもなくなる場合が多いと思います。こういう煮詰まり方をするのは日本人の特性で、他の国家、民族にはあまりみられない傾向です。

人生は日々ま〜るくなる為の修行なのか

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人生という修行のスタイルは、個々の魂においてかなり違います。
多くの人が「人間関係」のなかでもまれ、そして磨かれていきます。

でも、ある人達は人間関係のなかで葛藤したり、苦しんだりということを通して学ぶ方向性を持たずに生まれてきています。こういうタイプの魂は、人と接することでけして悩んだりしないのですね。悩むことはあっても深くひきずることはない。そうはいっても現実にはいろいろな問題が日々浮上するわけですけれども、そこにとらわれていると、ただひたすら虚しくなる…。自分はなにをやっているのだろう、と感じる傾向が強いのです。

一方で、大多数の人は、人間関係のなかでおおいにもまれ、翻弄されながら、カドがとれていくものです。魂はカドがとれていくほど丸みをおびて、しだいに美しく輝きを放つようになります。カドがあってギラギラしているのはまだまだなのかもしれません。

崩壊する縦の関係と、再生する横の関係。

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権威の失墜により、縦社会は崩壊していく一方です。個人の関係性においても、組織の中においても、縦の関係性は根幹から揺さぶられています。容易に変わらない組織もたくさんあるので、揺さぶられながらもやむを得ず体裁を保ちつづけていくよりない、そういう世界では引き続き表面上の権威も保たれていくでしょう。しかし、それははりぼてにしか過ぎず、実のところは抜け殻になっていくことでしょう。

一方で、横の関係は新たな再構築がはじまり、どんどん密になっていき、年月とともに堅固さを増していきます。いかなる権力もそれを無視することはできなくなり、実質的に権力そのものが分散化し、小さな集団でもそれなりの権限をもって機能できるようになっていきます。もっとも責任も同時に発生します。それはプラスに作用し、自浄効果になりますので、組織が腐敗する可能性はとても小さくなります。
新しい時代の横の関係においては、立場、役目、年代、性別の障壁はありません。個々が自発的に自分に最適の役割を担うようになります。誰も支配しませんし、管理しません。それでも全体が有機的に機能できます。それぞれは単細胞生物のように、実にシンプルに行動するだけなのですが、不思議と全体が調和してひとつの生命体であるかのように機能します。魂というのはもとより調和した世界に存在しているので、そういうことは原初から可能なのですが、人類がつくりあげた歪んだ文明と低い精神性が、私達の本来の可能性を歪め、封印してしまっていたのですね。その封印が解かれ、本来人間が持っている、あるがままですべて調和していく能力を発揮できる時代になったのです。

その為には、ひとりひとりが自然体であるがままの自分らしい生き方を一日も早く、実現することが大切です。自分が変われば未来が変わる、ということです。誰かが変えてくれるのを待っていたり、誰かが始めたら自分もはじめようではだめで、自分らしい生き方を見つけ今すぐに始めることが大切です。皆それぞれ持ってうまれた資質も、魂が望む方向性も違うのですから、最初は皆がてんでばらばらになり、右往左往することでしょう。混乱でというより混沌がすべてをうめつくします。しかし、混沌は本来は完璧な秩序でもあります。すべては元々法則性があり、大いなる摂理のもとに動かされているので、私達それぞれが自我を超越し、真理と一体になる真我の境地に至れば自ずとすべて調和していくでしょう。

あまり理屈っぽいことばかり書いていると、頭でっかちになってしまいそうでいけませんね。自分はどうすればいいのだろう、と考えてはいけません(笑)。

あるがまま、自然体の自分で生きる、というのは考えることではなく(少しは考えたほうがいいですが、なにごとも過ぎるのはよくありませんから)、そのまま「生きること」です。生きる、というのは食べることであり、寝ることであり、作ることであり、保つことであり、壊すことであり、楽しむことであり、悲しむことであり、失うことであり、得ることであります。失望することでもあり、希望を得ることでもあります。未来を見失うことでもあり、光を見つけることでもあります。そして、これらは一人ではむずかしいことばかりです。これからの時代は一人でいることが一番、不調和になるかもしれません。

一人でいる時間が長すぎる方は、一日もはやく助けをもとめましょう。また、もしもあなたの周囲に孤立している人がいれば、声をかけてあげてください。そうやって少しずつ、つながりましょう。つながってさえいればいいのです。整然と倫理的につながろうとする必要はありません。私達は元来、誰とでも手をつなぐことができます。つながり続けることが大切なんです。あきらめず、ねばりづよく、です。そうすれば、自然に秩序が生まれます。混沌はやがて美しいハーモニーとなり、すばらしい交響楽が地球から宇宙全体に発信されるようになるでしょう。地球が宇宙の中心になれるかもしれません。

昼下がりの競技場にて「真の強さ」に思いをはせること。

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散歩の途中、陸上競技会をのぞいてみた。高校生ってこんなに若々しいのね、と感じてしまうあたりにいかに自分が長く生きてきたのか、を実感してしまう。しばらくレースをみていたら、スタート前に順位がわかってしまうことに気がついた…。なんでも分かるんでしょう?と勘違いしないでいただきたいのだ。そうではなく、これはオーラをみれば誰でもわかってしまうだろう。それぐらい若々しい彼らの肉体からは、日々の練習の成果や、何度も大会に出場して積み上げてきた実績が、とても素直に反映されていて、わかりやすいのだ。もっともっと鍛えあげて戦績を重ねていくと差もなくなっていくのかもしれない。その日のコンディションに影響される要素もあるだろうけれど、スタート前にほぼ順位は決まっているといってもよさそうだ。

現実社会では、やむを得ず私達は競うことがある。どんなに避けたいと思っていても、時に力と力がぶつかりあい、決着をつけざるを得ないことがある。不可抗力というのは誰にでもありえる。まったく悪意がなくても身を守る為に、正当な力の行使をせざるを得ない。それは本質的には罪ではないので多くの場合は魂のカルマにはなりにくいだろう。が、心はすさむだろうし、精神的には重荷になってしまう。自分も相手も傷つくし、周囲も悲しむかもしれない。結果の重さの程度にもよるが、時に多くの人の人生を奈落の底につきおとすレベルの出来事も起き得る。いつの時代も生きていれば、戦いにまきこまれるリスクはあるものだ。完全な平和を人類はまだ一度も手にしていないのかもしれない。

競いたくない。

その思いがあり、受験の時は小さくなっていた気がする。受験勉強をしていて、なぜか罪悪感がつのる。自分が受かると、誰かが落ちるんだよな、と思うと、なんだか勉強に身が入らない。かといって自分が不合格になっては親にも応援してくれているじいちゃん、ばあちゃんに申し訳ない。そう思うから、仕方なく勉強してきた気がする。大人になってからも、なるべく人と競いたくないから他人と競合しない仕事、ポジションを求めていたように思う。人と違うことをすれば競わなくて済む、そんな思いが根底にあったから自然にクリエイティブな方向へと進んでいく後押しにもなったのだろう。

今も、もちろん誰とも競いたくない。勝ちたくもない。でも負けたら悔しいとは思うけれど(笑)。競わない生き方をしていれば悔しい思いはせずに済むだろう。だといいな。

そんな日曜の昼下がりの円山競技場で真の強さとはなにか、を考えてみました。
真の強さ、とは継続的な努力と、公正な競争を通して勝ち抜いた誇りによって得られるものだと思います。
継続は力なり、といいますが、それによって公正な戦いに挑む基盤が得られるでしょう。
そして、公正な競争(スポーツ、学問、ビジネス、家事、育児、アート、芸能などあらゆる領域)において賞賛を得たものが受け取れる、高潔な誇りを得たものが、美しくしなやかな強さを得るのでしょう。それは現実においてのみならず、魂にとっても誇りとなり柔軟な堅固さとなり、来世にまで受け継がれるものになるでしょう。

人生、できるならば輪廻転生を超越する強さを得るべく、努力を重ね、成果を示し、賞賛を得たいものです。

あなたが思う以上に、相手があなたを思っている。

私達は皆、人見知りです。そうではない、と自分に言い聞かせている人がいたとしても、そういう傾向があるということですね。

私なんかは人からどう見られているか、本当にそればかり気になってしまうほうです。若い頃はそんなことが自分ではわからなかった。でも、この年になると冷静に受け止められる。年の功というのはこういうことなのでしょうね。

20歳の時にはじめてピアノソロでコンサートを開きました。函館の大門地区にある小さなライブハウスです(今でもまだあるのでは)。地元で音楽をやっている人なら一度ぐらいはここで演奏したことがあるだろう、というほど昔から知られている場所です。有名ミュージシャンもよく来てました。最初は聴く側でしたが、少しずつ仲間と一緒に演奏するようになって、そうこうしているうちにソロでやってみたくなったんですね。そうはいっても20歳の自分に弾けるネタは非常に限られていました。今おもえば本当に稚拙な演奏だったでしょう。ただ技術的なものは今のほうが劣っているかな? 当時はとにかく鍵盤を叩けばいい、という感じだったんですね。強く激しい音とか。うなったり暴れたりすることとか(笑)。そういうことが大事なのかな?と勘違いをしていた気がします。若気の至り、ということでどうか忘れていただきたい。とはいっても客席はほんの数名(しかもほとんど友人)でしたから誰の記憶にも残っていないことでしょう。

今は演奏中は周りがあまり気にならない。無視しているわけではなく、自分と周りの壁がないのです。ひとつになってしまいます。以前はすごく聴衆を意識していたので、結局は壁をつくっていたのです。それだけ一生懸命だったんです。がんばって懸命に弾いていれば、ミスタッチのひとつやふたつ、許してもらえるかな、と。そんな気持ちもありました。最高の演奏は無理だけど自分なりに精一杯やっているので、どうかこれで認めてね、そんな意識もたくさんありました。
今は技術はかなり劣ってきましたが気負わずに弾けるようになりました。ミスタッチもしますが、それよりも体力と気力が持続するかが心配。ちゃんと最後まで弾き通せるのか?と、体と対話しながら弾いている感じです。集中力は必要ですのでね。

演奏中は自分が弾くという意識ではなく、皆さんの意識がひとつになって自分のなかで混ざり合って昇華し、音になって響き渡っていく、そんな感覚です。自分は媒体ということでしょう。今では自然体でそういう演奏ができるようになってきました。だから、ライブが最高だと思います、私の演奏は。私の演奏が最高だと言っているのではありません。皆さんが集まってくださってひとつになる体験ができることが素晴らしいんです。

即興演奏でほとんどのプログラムを通してしまう人は、やはりまだまだ珍しいと思います。こういう感覚はどちらかというとネイティブな民族にみられるものでしょうね。彼らは自分と他者だけでなく、自分と精霊との分離感がないですから。自分の体を通して精霊が表現をする、という感覚がもともとそなわっています。私にもそういう感性がなぜかあるんです。これは生まれつきなので、前世から持ち越した資質なのですね。

あなたが思う以上に、相手があなたを思っている
人の話をきいたり、悩みを上手に受け止めてあげようと思うと、自分の気持ちのおきどころが難しくなります。一生懸命聞いたり、受け止めたりしていると、とても疲れるものです。自然体でほどほどに受け流していると、そんなに疲れない。その加減が最初は難しい。カウンセリングは技術も大切かもしれない、でも、慣れということも非常に大事です。漬物づくりは、何十年もやっているおばあちゃんには誰もかなわない。それと同じで、相手を受け止めるというのは慣れに勝るものなし、という気がします。

あまりがんばると、かえって相手から心配されます。だから、ほどほど息抜きをしたほうがいいし、元気になったよ、と伝えたほうがいい。遊びに行ってきたといってお土産を配るぐらいのことをしたほうが、相談する側だって気楽でいられるものです。

誰かに思いを伝えたいのなら、そのことを応援してくれる人にサポートを受けるとよい。まず受け取る。そうすれば自然に与えることができる。

音楽をきいてもらいたいなら、そのことを応援してくれる人からのサポートをまず受け取る。そうすれば自然に表現できるし、伝えられる。

人を癒やしたいなら、そのことを応援してくれる人のサポートをまず受け取る。そうすれば自然に人を癒せるようになる。

そうやって自然に与えられるようになっていけば、自然に返ってくるものを受け取れ、良い循環が生まれます。
ものごとは巡り巡って、関わり続けていくものです。
人と人とのつながりも、思い合うことが輪廻していくもの。
だから、あなたが思うだけではうまくいかない。思ってもらうことの大切さ、ありがたさをしみじみと感じいくことも本当に大切だということです。

音楽や癒しだけでなく、あらやる関係性において、これはとても大切なことです。

人の限界をみないこと。

人は誰しも絶望するものです。なぜかわからないけれど、誰にでも絶望感というのはあるのではないでしょうか。

私もよく絶望します。
ああ、もうダメだな、とか。これが限界なのだな、と。そう思うことがしばしばあります。
自分のことならまだしも、人のあり方をみて、そう感じることもあります。
たとえば政治や行政をみていて、あまり期待しても仕方がないな、と考えてしまったりすることがあります。
スポーツ中継をみていて、もう絶対に逆転はできないだろう状況では、わりとすぐに応援をあきらめてしまうこともあります。

でもそんな時こそ、思いなおしてみるのです。
もしかしたらこの政策は案外うまくいくかもしれない。
もしかしたらこの試合、最後の大逆転があるかもしれない。

そう考えるだけで、ちょっとわくわくしてきます。
わくわくすることができると、自然に自分のなかに前向きなエネルギーが湧いてくる。

うまくいっていない流れをみたり、あまり期待できそうにない人の行いをみて、あきらめてしまうのは私達の習慣のような気がします。
そうするように洗脳されてしまったのかもしれません。

でも、どんな絶望的な場面も、わくわくできればきっと乗り越えられるでしょう。

先日、昏睡状態になってしまったご家族についてのご相談をいただきました。
呼びかけにもまったく反応がないという状況でした。
それでも私は「まだしてあげられることがある」というお話をしたのです。
ご相談者様も少し前向きな気持ちになっていただけたようでした。

人という存在には限界はないと思います。
たとえ自由を奪われても。自活できないとしても。命の炎が燃え尽きようとしていても。
人は変化し続けていくものです。

魂は不滅だから。