お金を落とすと運がつく

財布をおとす、現金を失う。普通は「不運」と考えます。

が、それがきっかけになって運気が上向くこともよくあります。そこのところが気づきになって、運気停滞の理由が見えてくることも…

ネガティブな結果は、実は隠された宝物のありかを示す地図なのかもしれません。

小さい器

人間は皆、小さい。その器の小ささ故に限界があり、その限界があるがゆえにジタバタする。ジタバタするが故にボロがでる。ボロがでるが故に批判を受ける。批判を受けるが故に反省ができる。反省ができ、なんとか方向修正ができ、小さな器のなかで、ちんまりと収まることができる。もし、器がもっと大きかったら一生かかっても、一区切りつかないことだろう…。

苦しい時はどうぞ遠慮なく・・・

我慢強い人、意思の強い人、責任感の強い人、自立心の強い人、思いやりの豊かな人、向上心のある人、優しい人、相手を傷つけたくない人、みんなの為によかれと思う人、親の気持ちを汲む人、みんなが苦しいのだからと思う人、神様に嫌われたくない人・・・

それでいて、腰が痛い、背中が重い、肩が凝る、眠れない、おいしく食べられない、楽しくない、希望がもてない、なんの為に生きているのかわからない。そんなふうに感じているとすれば、心も身体も疲れているのです。

我慢しないでください。あなたのガイド達はとても心配をしていて「無理しないで」と言っています。

心のどこかで、とても苦しいと思ったらどうぞ遠慮なく相談してください。一緒に問題に取り組んでいきましょう。

日々の「問題」やたくさんの「課題」は、解決すべきものというよりは、取り組み方を工夫すべきものだと思います。なんとかするのだ!という考え方は疲れるから、あまり気負わないでほしいです。

大地と共に生きること。

ずいぶん年を重ねてきたものですが、寅年の自分にとっては、というよりも2001年からサロンを始めた自分にとっては2011年、そして2012年という年は、どうしてもそこまでたどり着きたいと願っていた悲願の年でもありました。ひとつのピークというか、峠というか。とにかくそこまで行って、そこから先のことはその時点で判断したい、と。そんな思いが強かった。

まだ2012年ははじまったばかりですが、非常に緊張しています。心身共に、です。

というのは身体が異様な変化の匂いを感じているからです。

振り返れば2005年から2006年頃にも大きな変調がきて、あの時期もとても苦しかったのですが、自分の人生を振り返れば体調が激変して、生きていることだけで大変という時期が何度かあるんですね。ただ、以前は自分のことも周囲のことも理解が浅く、また体調管理も甘かったのですべての原因は自分にあると思い込んでいました。ただ、いろいろなことを学び、考え、自分なりに理解を深めてきた今、すべてがシンクロしているという観点から、自分の感じることをもっと伝えていく必要があるんだとわかってきました。

今年に入ってから非常に特殊な瞑想をするようになりました。それは大地と共鳴をする、という一種のトレーニングです。それをはじめた途端、とんでもない夢をみるようになりました。自分の夢診断はなんなくこなせるのですが、今年にはいってからみた幾つかの夢は、必ず大地と共鳴する瞑想をした直後にみています。いったいその情報がどこからくるのか…。まだよく理解できていません。そういう瞑想をするようになったから、見るのか。それが始まったから見るようになったのか。両方かもしれません。とにかく非常に重要な意味があることが身体を通して伝わってきます。

ずいぶんグランディング、ということを教えてきましたが、その方法を少しアレンジし始めています。まだ自分で試しているだけですが、ひょっとすると去年までのグランディング方法ではうまくいかない、と感じている方もいるのではないでしょうか? もしいたら、是非アピールしてください。大地を感じる瞑想や新しいグランディングの方法を考案して伝えていく必要があるかもしれません。また、グランディングはエネルギーを伝授することでうまくできるようになる場合があります。この伝授をずっと前はやっていましたが、必要性があるかどうか判断しきれず、近年は封印していました。必要があれば再開します。

が、まずは自分がしっかりグランディングできるようにしなければいけません。調整と瞑想を繰り返しながら、最善の技法とエネルギーをお伝えできるように準備しています。

グランディングがうまくいかなくなると、身体に様々な変調をきたします。その出方は個々にまったく違うのですが、理由のない不安感は共通の症状です。この不安感は理由がまったくないので、もし小さい子が感じると恐怖感につながる怖れがあります。もし、理由もなくなにかを怖がったりしている子が周りにいたら、理由を問いただしたりしないほうがいいでしょう。本人もきっとわからないのです。大人は不安にも恐怖にも免疫があるのですが、普段からストレスが多い方はまず腰痛がでます。肩こりもひどくなります。続いて内蔵の血行が悪くなりますから、消化器系や腎機能、泌尿器などが調子が悪くなります。女性は生理痛などがひどくなります。

加えて足腰の冷えがでます。そこからくる、足元のトラブル(怪我、交通に関する変調)も注意が必要です。それがもとで運気が下がって金銭トラブルや人間関係のトラブルや契約上(取引、売買)での抗争につながることもあります。

本当にグランディングは基本であり、日々積み重ねるべきものであり、大切なことです。これが失われると呼吸が乱れやすくなりますから、非常に周囲の状況に流されやすくなり、自分のペースが乱れます。集中もできなくなり、神経を使う仕事をしている人は辛いかもしれません。もっとも影響を受けるのはおそらくクリエイターです。創作活動をしている人は、思うようにアイデアが出なくなるかもしれません。

調理場にたつお母さん、飲食業の人も注意が必要です。味が毎日、定まらない感覚があると、とても困りますよね。足元をしっかり浄めてから仕事をしてください。それで大分、落ち着きます(厨房の床を塩で浄めると大丈夫です)。

大地との共鳴はとても大事な基本中の基本です。光のサロンでは、レイキの指導の際になによりも大地を感じること、呼吸をしっかりすることを最初からずっと繰り返し繰り返し伝えています。皆さんもどうか大事にしてください。

こういったお話はいくら話しても尽きることがないのですが、セミナーではいつも話していることです。本でも書けばいいのですが、そんな時間があるでしょうか。それよりも今年はセミナーに来てくださる方にとにかくたくさん教えていこうと思っていますので。参加できる方は参加してください。言葉では伝えられないものが多すぎるのです。身体で、技術として学んでもらい、それを伝えて欲しいというのが一番です。それを補う為に、言葉が必要であれば本を書く時間を神様が与えてくれるかもしれません。それはもっと後でもいいと思っています。まずは、手から手へと伝えるべきものがありますから。それを優先する一年にします。

今年はおそらく今までより皆さんには塩でしっかり足元を浄めていただく必要があると感じます。浄めてからグランディングをやってください。そうしないとうまくいかない事が多いと思います。

※グランディングの方法はスピリチュアルコラムに載っているのでご参照ください。

2012年最初の合宿

今回の合宿は例年と違うペースでの開催のタイミングになってしまいました。昨年は大きな変動の年でありましたからやむを得ません。暦の上でもなかなか日取りが合わず苦心しました。
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1月のニドムの森はとても静かでした。丁度、旧暦の大晦日と新年を森のなかでひっそりと迎えることになりました。偶然ではなかったのでしょう。この時期、森の静けさにとっぷりと浸ってみるのも、とてもいいものです。

こんな静かな場所に二泊もしていると、いったい自分がどこにいるのかわからなくなります。現実感がなくなっていくんですね。
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でも、よくよく考えてみれば自然のなかにいるほうが本来は現実の全てであって、そこで非現実感を感じるということは、いったいぜんたい私達は日常をどこでなにをしているのだろう? そんな気がしてしまいます。合宿から日常に戻ると、いつも思うのは「また戻ってきてしまった」という感覚。それは正直なところ、あまり嬉しい感じとは言い難いわけです。現実は誰にとっても大変ですから。

日常とは違う世界に行って、戻ってくる感覚。これは魂感覚をゆさぶる、とてもいい刺激になるんです。だって、この世とあの世は別次元で、そして地上はとても大変な世界だからです。どんな魂だって生まれ落ちた時は「大変だな、これから始まるんだな」と武者震いして産まれてきます。そして、天に召される時は「やっと元の世界にかえれるんだな」と完全な安らぎのなかに戻っていきます。

私達が産まれたばかりの赤ちゃんの可愛い安らかな寝顔をみて、なぜか安心するのは天上界の静寂や調和をふと思い出せるからなのかもしれません。

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今回の合宿では、魂の目覚めというテーマですごくたくさんのワークをこなしました。どれも難しいワークではありませんでした。でも、一生の間でそうそう体験することのない内容ばかり。とても濃い内容になりました。素晴らしいセミナーになったと思います。参加してくださった人たちにとっても、一生の良い思い出になることでしょう。「魂の目覚め」というテーマも、時を経るごとに実感していただけるだろうなと思っています。

心を読み解く

いったいいつ頃から、自分はこんなに人の心を読み解く事に興味を持つようになったのだろうか。ふとそんな記憶をたどってみた。

大学に籍をおいた3年間は人生の暗黒時代で未来への展望がなにもなかった。そんな折り、図書室で心理学の本をなにげなく手にとって読んでみたのだが、そのなかに夢をとおして抑圧された意識をひもといていくという事例が載っていて、非常に興味をひかれたことを今でも鮮明に覚えている。

他も多くの事例が本には載っていた。自分が興味をひかれたのは「いったいどうすれば夢に隠された憎しみを読み解けるのだろうか?」という点だった。結局のところ自分が知りたい核心については、どこにも書かれていなかった。その後、大学に見切りをつけ、ついでに実家も飛び出して札幌に一人移住した。拾ってもらった会社で必死に働きながら衝撃的な体験をする。もう誰も彼の事は覚えていないかもしれないが、数ヶ月の間一緒に働いたT君だ。本州出身の彼は、気持ちの優しい青年ですぐに打ち解けた。引越しを手伝ってくれたり、一緒にご飯を食べにいったり、締め切り前はよく一緒に徹夜もした。だがほどなく彼は統合失調症らしいことが判明し、通院して投薬を受けてがんばったがやむをえず退職していった。最初に内科を受診し、脳波検査を受け、安定剤を飲むようになり、やがて症状が悪化していく様子を、一番間近で向き合ったのは自分だった。思えばあの体験が人の心の闇に意識を向ける、大きなきっかけになったと思う。

一番、症状がひどい時のT君には別の名前があった。まったく普段とは別のY君という人格に入れ替わってしまう。その後は深い昏睡状態になる。目覚めるといつものT君に戻っているのだが、その時に彼はもう一人の自分のことをまったく覚えていなかった。もう一人の人格であるY君とは、彼の部屋で何度か話したし、ふらふらとさまよっている場面を見つけて追いかけて見失ったりした。いったん、行方がわからなくなると何日も部屋に帰らなかったが、数日すると消耗しきって暗い部屋のなかでうずくまってひたすら眠っていた。

隠れた人格のY君は、ひたすらなにかに怯え逃げまわっているようにみえた。親身になってささえたいと思った。もっと話して欲しいと思ったが、Y君はけして心を開いてはくれなかった。簡単な会話に数回、応じてくれただけ。とても虚しく、そして残念だった。

症状が悪化して勤め続けることは無理ということでT君は去っていった。

心が完全に分裂して、二人の人格が同居することがある。それぞれは自分の名前をもっていて、別々のことを考えたり、悩んだりしていた。ただ、現実を生きている友人だったT君とは違い、過去の体験のなにかに怯えてつづけているY君とは知り合いにもなれなかった。

人は表の顔を裏の顔を持っている。その後も、たくさんの本を読んだがY君がいったい誰だったのか、どうして彼らは分離してひとつの心を共有することになったのか答えを見つけることはできなかった。幼少期になにかあったのかもしれない。大きなトラウマを抱えていたのかもしれない。繊細でナイーブな気質を持っていた彼が、誰かを傷つけてしまった罪の意識を受け止めきれず抑圧した結果なのかもしれない。

もしもう一度会えたら、なにか解決する為の方法論の一つも教えてやりたいと当時の自分は心のどこかで願った。30年近い歳月を経た今の自分ならT君の力になれると思う。そしてY君とも対話ができると思う。それだけの能力を磨き、経験を積み、技術も得た。神様はその機会を与えてくれるだろうか。

11th year message

2011年も最後の月。そんな時期、いちじるしく反省モードにはいってます。
振り返れば一年前の年末から年明けにかけて、何かを感じながらも整理・分析できずにただ混乱に陥っていた自分。ふりかえるだに情けない気がするのです。そして今年の年明けからすぐに始まったただならぬ違和感。そこからあれよあれよという間に、この現実の世界は大きな荒波に飲み込まれてしまった。この状況から私たちは進路を定め、しっかりと地上での時間を歩んでいかなければならない。この世に命を預かり生かされている皆が同じ宿命を背負ったのではないでしょうか。

3.11以前は自分のエゴの重さを考えたり、内なる怖れや不安や不調和をみつめるだけでも人生はなかなか大変でありました。しかしながら、今となってはもはや内観を深めるだけではなにか物足りない、というよりあきらかに何か欠落している。そんな感覚すら覚えるようになりました。

数年前から、たくさんの課題を自分に課して取り組んでいるのですが、達成率は2割程度でしょう。できなかったことが多くありました。公言しても尚、結局できなかったこともあり、ご期待いただいた皆さんには、ひたすら不徳のいたすところ。お詫びのしようもありません。すっかり空回りしていた自分もあり、地に足つかずであったと悔やまれます。

でも、おかげさまで光のサロンも、ここまで歩んでこれました。お力添えくださった皆さん、お一人お一人の思いをいただいてこそ、今日ここに立っていられると思っています。幾重にもお礼申し上げたいところですが、私はその気持を形にかえ、前進していくべき立場だと思っています。様々な無礼はお許しいただき、せめて今日の一歩をなにがしか前進してその結果を皆さんにお返ししていこうと思います。いうまでもなく、私のような単純でそれしかできないおバカな人間には、自分が授かった能力を磨くことしか人の役に立てる道はないのです。

最近は、また新しいインスピレーションを感じ始めています。というより、私という人間はなにか新しい直感力を日々、磨きあげていくことでしか前進するモチベーションを維持することができないようです。昨日とはまた違う「なにか」を感じ取り、その意味を解読して皆さんにお伝えしていく。それはいわば、季節ごとに必ず新しいデザイン、機能性、形の商品が並ぶユニ◯ロのような…。ちょっと例えがえげつないですが、いつも変化している自分でありつづけないと、もはや自分ではなくなってしまいます。その点において、この1〜2年というのは、あまり変わることができませんでした。守りに入っていた自分があり、それが足かせになってしまいました。自分でも思えば、残念なことでした。なにが残念といって、そのことで少しでも時間を無駄にしてしまったような気がするからです。けして皆さんとの関わりが無駄という意味ではありません。自分の甘さ、判断の緩さなど、自分自身が残念でならないのです。時間を無駄にしたくない、という思いは年々強まってきました。おそらく、自分の年齢からくる意識でもあるでしょう。親の世代が次々に、寿命を終えていく。自分の肉体の衰えも感じ始める。同じ世代の周囲の人達が、心や体の限界を迎えて力尽きていく。現実はとても厳しく、そして絶対的にゆらがない。つまり時間は限られているという事実ですね。そのなかで、どこまで魂が納得できる生き方を選択していくか。

2012年からは、ひとりひとりの「選択」が試される時代になります。右へ習えではなく、自分に習うのです。自らの心に従うのです。心には真理が宿っていると思います。それを見出す為には、自分をもっといたわり、大切にすることが大事。体をいたわりましょう、自分の心を穏やかに保ちましょう。そうすれば、誰でも人にやさしい気持ちを持つことは必ずできるようになると思います。皆さんが誰にとっても優しい暖かい人でありつづけられるように。そんな時代を迎えられるように。私は私なりの努力を日々積んでいこうと思います。

光のサロンは、なんと10年の歳月を重ねました。気持ちを新たに11年目に突入です。どうかこれからもよろしくお願いいたします。今日までお会いしたすべての皆さんのことを、私はいつも思っています。また、お力になれる機会があればとても嬉しいです。

朝崎郁恵さん(ピアノ:高橋 全)「おぼくり〜ええうみ」をBGMに、こんな画像が紹介されていました。

どんなに辛くても、この現実を私たちは見つめ、乗り越えていく。きっとできる。きっと叶う、新しい未来は必ずやってくる。そう信じる力を高め、手をとりあって向き合っていきましょう。私たちは必ず再生し、新しくなれるはず。その力が皆さんの心のなかに宿っている。私には、そのことがわかるのです。確信している、という以上に、絶対大丈夫、必ず新しい未来はあるということがいつも見えています。ですから、共に未来を信じ、前進しましょう。皆が手をとりあえばきっと大丈夫だと思います。

身の回りのあらゆることに気づきはある。

最近、ラジオ方法を聴くことが少し増えています(インターネットでもラジオが聴けるようになりましたからね)。

先日、ある番組でリスナーから寄せられる夢の話題に耳をかたむけていたら、自分もみたことのある夢とまったく同じ内容の夢をみている人がいたんです。夢ってなかなか面白いものです。

夢を読み解けるようにしておくと、自己分析にとても役立ちます。自分でも印象深い夢は、手帳に書き留めておいてあとで振り返ってみたりします。

夢もそうですが、日常の生活のなかで「ふと気になる出来事」というのは、ほとんど全てといっていい。そこになにか「気づきのサイン」が隠されているものです。

・同じような出来事があいつぐ
・印象深い夢
・特定のキーワード、数字が心に残る
・古い友人から不意に連絡がある、路上でばったり遭遇する
・身体の些細なトラブル、不調(特に小さな痛み、不快感)
・近しい人達とのトラブル、対立、口論(心に深く残る相手の態度、言動)
・内なる秘めた感情が蘇る(無意味なホームシック、人恋しさ)
・現実逃避の衝動、突然の大きな虚無感

仕事、健康、人間関係に目に見える大きな課題がなくとも、これらの項目の小さな「気になるできごと」の積み重ねがたくさんあれば、ひとつひとつの意味をしっかり理解していくことで人生の断捨離が可能になってきます。

ひとまず順調な人生であっても、それでも無駄というのはなくならないものです。別な言い方をすれば、とてもスリムに無駄なく生きている人でも、まだまだ人生を有意義なものにすることは必ず可能だということです。

人生は一度きり。過去にも来世にも、同じ土地、同じ家族、同じ環境、今と同じ人格、個性を持って生まれ変わることはありません。宇宙の歴史のなかでたった一度きりで唯一の人生が「いま」なのです。目の前の課題がある方は、できるだけスムーズに確実な取り組みをしたいもの。小さな課題がたくさんという方は、無駄がないかどうかを確認しながらより大きな達成感を得たいですね。

怖れる生き方

「怖れを手放そう」という表現がある。怖れも煩悩の一部だ。簡単に手放せないところが人間らしさでもある。だから難しいのだ。難しいことをがんばろう、なんとかやってみよう、というのはおしつけがましくて、あまり大きな声で言われたくはないかもしれない。

人生において「怖れ」るが故に、失敗したり、掛け違えたり、誤解したりされたり、対立したりすることは、本当によくあることだ。ありすぎて困るぐらいたくさんある。もし、人間が「怖れ知らず」な存在だったなら、この世の中はどうなっていたんだろう。天下泰平だろうか…。いや、逆に味気なく無味乾燥な世の中になっていたかもしれない。穏やかであること、安らげる世界であることは誰にとっても普遍の願いに違いない。だが、私たちの内部には「怖れ」という忌まわしき敵が潜んでいる。

怖れといかに向き合い、超越し、その向こうにある「自分らしい生き方」にたどり着くか。そこに人生の知恵の全てが網羅されているといってもいいのではないか。怖れを通して私たちは日々、ほんとうに多くを学ばされている。

とどのつまり「怖れる」ことも、生まれてきた時点で宿命といえるのではないだろうか。であるなら、あるがまま内なる「怖れ」と対峙し、人生の最後の日に勝敗がいかにでるのか甘受しようではないか。

悔いない生き方

今日は「悔いない生き方」について考えてみよう。

「悔いる」とはどういうことか。古今東西で微妙に定義が変わってくる。西洋では「悔い改める」という概念があるが、これはあきらかに宗教的なニュアンスが濃い。そして西洋的な個人主義社会では「悔いない生き方」の定義が、個人の「意思」に重点が置かれる。つまり「自分に恥ずかしくない生き方」であるかどうかに非常に重きがおかれているようだ。個人の尊厳を大切にする社会だから当然だろう。

日本人である私たちにとっての「悔いない生き方」は、いったいどのようなものなのか。そこにはたしかに「悔い改めるべきことがあれば、改めましょう」という真摯な姿勢も感じられる。だが、それは私たちがもっている精神的な「伝統」であったり「空気」のようなものに対してあって、けして神に対してという概念ではなさそうだ。

よく西洋社会からいわれるように日本人はなかなか、よくわからない精神構造を持っているようだ。いったいわたしたちにとっての「悔いない」とはどういう生き方なんだろうか。ひとりひとりが自分の現実に照らし合わせて「自分はいったいどう生きれば悔い無く生きられるのだろうか」ということを考えはじめると、途端に迷路にはまってしまう。

わたしたちが持っている「悔いない」の定義には、あきらかに「自分自身が悔いない」というニュアンスが多分に含まれている。人に定義づけられるような生き方よりも、自分が定めた自分自身のマニフェストに従って「悔い無く生きたい」という願望を多くの人が持っているだろう。すると「自らの人生のマニフェスト」が明らかになることで、悔いない生き方はリアルに浮上してくる。悔いない生き方はなにかを追求するのではなく、自らの生きる指針(マニフェスト)を明らかにすればよいのだ。

自分の人生の最高責任者としての自分がどう生きたいのか。自らに問うことからはじめてみよう。