より堅実な前進の為に

今月にはいってから「開運」を意識したセッションをこころがけています。
平坦な日々であっても、わたしたちの人生の足元のコンディションは、微妙に変化しています。
それを読み取って、より疲れにくいよに、足をとられないように、上手に歩くことを心がければ自分のペースを見失わず、疲れにくく、故障もせずに日々前進できるもの。

なにも問題がなければないなりに、心がけ、注意すべきことはなにがしか見いだせるものです。

宅配の時間指定とベンサムの功利主義

この頃、外国に商品を注文する機会が増えた。ネットで国内へのオーダーとなんら変りなくできるようになった。少し敷居の高かった個人輸入が非常に簡便で身近になったことはありがたい。昔、個人輸入をはじめたころはオーダー用紙をFAXする為に英文タイプでガチャガチャ打ったりしたものだ。FAXできたとしても届くまで発注手続きが間違っていなかったどうかはわからない。無事に日本に着いても税関で止められたり税金でトラブって先方と英語のFAXをやりとりするはめになったり…苦労が多かった。その当時を思えば、今は英語圏についてはまったく境界がなくなったような感覚だ。ただ一点をのぞいては。

それは「時間指定」ができないということだ。国内の通販については(アマゾンはまだできないが)ほとんどが配送時間指定が可能だが、海外からの荷物はそうはいかない。「時間指定」はとても便利だ。2時間ぐらいの範囲で到着時刻を指定できる。これはすごいことだと思う。一旦この便利さになれると時間指定ができない業者より、時間指定ができる業者を選ぶようになってしまう。

ある時、宅配業者が指定したのと違う時間帯に荷物を持ってきた。できれば来て欲しくないタイミングだったのでクレームをつけたところそれ以後は改善された。北海道の人は全般的にこの程度ならクレームをつけないのではないか。冬の交通事情が悪い時期はどうしても時間通りに届かない。それに慣れていると、たとえ夏でも配送時間がルーズでも「なにか仕方のない理由があるのかもしれない」と考えてしまうのではないか。
北海道人の気質には、困った時にはお互い様というのがあると思う。相手のミスをなんでも受け入れてしまう「甘さ」がある。もちろん支え合っていこうという連帯感からくる「命がけで必須の」甘さだったはずだ。昔は「郵便」が通信、配送のかけがのない手段だった。吹雪の日などは命がけで配達していたことだろう。予定通りに届かないからとクレームをつけることはなかったはずだ。開拓時代のなごりは当然だが、もはやインフラは完成されたのだしこれからはわたしたちは意識を変えていく時期にきているだろう。

だが、どう意識を変えればいいだろうか。
配送時刻が時間指定と違ったら必ずクレームをつけるべし、でいいのか。豪雪の日にそんなクレームをつける人はいないし非常識と思われるだろう。でも、本当にそれは非常識だろうか・・・。

わたしたちはその回答を持たない。でも、なにか共通の概念や倫理観を持つようにしなければいけないのではないだろうか。

こういう時にベンサムの功利主義ではこう考える…などという哲学の時間が小学校にあってもいいんじゃないか。公立では無理でも、私学なら可能だろう。

高校は私立カトリック系だったので毎週1時限だが聖書の時間があった。他にも倫理という授業もあったがかなりカトリックに傾倒していたような気がする。聖書も倫理も、どちらも宗教、思想について学ぶ時間だった。難解な数学よりは興味をもてたが、ありきたりの解釈は正直なところつまらなかった。リアルに自分にとって人生の血肉になるような授業ではなかった。

わたしたちの人生はとても短い。世界中の人に普遍な知識も大事だろうが、今、この北海道で生きていく自分達に価値ある思想や哲学が学べるのなら、とても意義があると思う。

利益を生むこと、利益を得ること

利益を生むことについては、冷静沈着で積極的であっても利益を得るという段階になって消極的になってしまうことがある。
その背後には罪悪感が潜んでいる場合がある。

利益を得ることがたとえ正当なことであっても、どういうわけか罪悪感が伴なう。
この感覚はどこからくるのだろうか。
もし、そのことと向きあってコントロールできるようになれば、利益を生むことに、実はもっと積極的になれる可能性があると感じている。
お金がからんでくると、人間関係はとても重く、粘着質になってくる。なかなかその事に慣れない人も多いようだ。

大きなお金を動かしているのに、とてもさらっとしているオーラを放つ人こそ本当のビジネスエリートなのかもしれない。

ほっとする発見

よく読んでいるIT系のブログに、「人間関係がねじれていくのは自分が原因である。」また、「自分の性格や価値観は簡単には変えられないが、行いは努力で変えていける。」こんなことが書いてあった。

自分の身に起こることの原因は自分にある。この考え方は、最近引き寄せの法則という言葉がはやっているらしくすこしずつ浸透してきたようだ。スピリチュアルな世界ではカルマの法則として普遍的に語られてきたことだ。また仏教には因果応報という考え方があって、仏教圏の私たちにはさほど目新しい概念ではないと思う。が、本当に自分の日常に、人生に、この法則は厳密にあらゆる事象に完全な影響を与えているのだということまでは、なかなか理解されていない。それは「じゃぁどうすればいいのよ?」という誰しもが感じる疑問に明確な解が得られないからだろう。

ネットのそこここで、こんなふうに「自分の行いを努力で変えていけば人間関係はうわむくのだ」という言葉をみかけるのは、すこしほっとする気がする。要するにどうすれば?という問いに対するこれもまた普遍的な解は「努力」なのだ。結局、スピリチュアルをひもといていくと、昔からじいちゃんばあちゃん、おやじやおふくろが口うるさく言い聞かせてくれていた言葉につながっていく。

自分はほんとうになまけ者なのだろうか

働かざるもの食うべからずともいう。

「なまけてないで、もっとしっかりがんばりなさい」と他人に言われることがある。
人は自分の鏡、ともいう。
そうすると、
「あ〜、これは自分がなまけているのだな、もっとしっかり努力を積まねばならないという戒めなのだな、自分がだらだらしないように人様がいたらない自分の鏡になって叱咤激励してくださっているのだ、相手を憎まず、感謝して、そして一生懸命がんばるべきなのだ…。」
このように解釈すべきなのである。

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いや、でもなにかおかしい。
人から厳しくいわれる、叱咤される。
人は自分の鏡ともいう。そこでなにに気づくべきなのか。
「自分はなんてなまけものなんだ、どうしてもっと努力できないんだ、あ〜、自分はなんてダメな人間なんだ」
こう思っていると、そういう自我の鏡となるべく人から「そうだそうだ、おまえはなまけものだ、もっと努力をしなければ地獄に落ちるよ」と指摘される。

もしかしたら自分の意識が「自己否定」の方向に必要以上に傾いていて、そうならないようにニュートラルに戻しなさいよ。そのことを人様が鏡になって指摘してくださっているのかもしれないのだ。

そうすると、この場合は、
「ちょっと一休みしよう。そしてあまり自分に必要以上に厳しくなりすぎないように冷静に自分を見つめてみよう。」
こう解釈すべきなのではないか。

自分のこころの底を自分で見通すことはなかなか難しい。

霊感のある人を支えたいという思い

霊感があるおかげで本当に苦しかった。母もそうだったので家族みんなが苦しかった。いつも母は霊障でツラそうでした。それなのに自分までおかしくなるわけにはいかない、と気張って生きていたのですがさすがに30代からはじまった霊障は途方もなくひどくて、自分ひとりではどうにもできなくなり、やはり母親には心配をかけてしまいました。とても親不孝なことをしました。意図しなかったにせよ、霊感なんてもので親を心配させるのは自分の倫理感では許せなかったのです。人並みに学校をでて就職をして安定した暮らしを得ることで安心させるのがなによりの親孝行…と信じていました。でも、やっぱり封じられていたはずの霊感がよみがえってしまい、どうしていいかわからなかった…なんとか霊障を解決したい一心で一大決心をしました。あの決意は自分の人生で最大のものでした。それは霊媒としての修行に取り組む、というもの。それから一心不乱に修行をつみました。滝に打たれ、瞑想をし、祝詞を唱え、神様にお願いをする日々でした。修行は死ぬほど辛かった。でも結果がでたんですね。何年も苦行を積むうちに霊障を振り払うことができましたから…。さまざまな霊力が開花する、というおまけもついてきました。が、本当は霊力なんて欲しくなかった。自分はただ母に心配をかけずに済む、誰にも心配をかけず普通に暮らせる。それだけでもう満足だったのです。霊障を解消できてからは仕事に専念しました。

が、人生というのはわからないものですね。大好きだったゲームを作るという仕事に「飽きてしまった」のです。自分にとっては天職だと思っていたのですが。会社のなかでもいろいろとあって、好きな仕事、お世話になった職場、大切な仲間たち…本当に切ないお別れでしたが会社を辞めることにしたのです。

それからは音楽を作ったり、ヒーリングを教えたり、瞑想を指導するようになり、結局一番磨かれていったのは更にするどく正確な霊視の能力でした。少しずつ相談が舞い込むようになるなかで、やはり出会ってしまうものです。同じように霊感を持っている人に。霊力をもって生まれてしまったが故に苦労して生きている人には、ものすごく共感してしまいます。自分のもてる力で、できるだけ支えたいと思いました。世の中は広い。けっこう霊感のある人はいるものです。

そうこうしているうちに、霊感も多種多様で実に様々なタイプの人がいることもわかってきました。なかには自分よりもずっと鋭いアンテナや分析能力を持っている人もいます。少しずつ横のつながりも増えてきて、もう一人じゃないですね。若い頃のような孤独感はすっかり消えました。必死に努力した甲斐はありました。

これからもきっと若い人達のなかから現れてくると思います。未来の預言者や、人の心や運勢、動物の意識を読み取ってしまう人達が。できる限り応援していこうと思います。

人生はわからないことだらけ

人生は、どうしていいかわからないこと、わりきれないこと、納得いかないこと…だらけ。

もし、人様の人生と向きあおうとする時に、わからないことだらけの人生の命題にどう向きあってあげればいいのか。
カウンセラーとして(というより、人ならばだれでも)その答を模索していることでしょう。

今日のヒーラースクールでは、カウンセリングを実習しました。
人生でよく出会う幾つかのケースを魂のロールプレイを体験し、実際に参加者に味わってもらいながら
答えあわせをしました。

参加者の皆さんにとっては衝撃的な体験だったかもしれないけれど、大きな心の糧になっていくでしょう。
それぞれの持場にもどって、しっかりと人の心を支える役割をになっていってくれることを願っています。

霊媒という肩書はまんざらでもないこと

「霊媒」という言葉をみなさんはどう感じるのでしょう。自分にとっては呪われたキーワードでした。今でこそ笑い飛ばせるのですけれど、子供の頃は忘れたい世界だったのですから。自分のなかでは忌み嫌うナンバーワンの言葉でした。今はどうかといえば、霊媒である自分を誇りに思っているのです。苦労もありました。人にわかってもらえない、という孤独感やコンプレックスで悩まされました。霊感なんて、なんの役にたつものか…若い頃はそんな思いが強かったですし、役にたてられる方法も見つかりませんでしたから、そんな自分を押し殺して生きていたと思います。それでもなんとか人並みか、ひょっとしたら人並み以上ぐらいにがんばれたり結果もだせたりしたのは、ほんとうに不思議だったり奇跡のように思いますが。霊的な問題にとらわれて自分らしく生きられないのは、すごく悔しいという思いがあったものですから、かえって人よりもがんばれたのかもしれません。これは本当の気持ちですが、自分は30年ぐらいしか生きられないと物心ついてからずっと思っていました。そうしたら30歳からの人生は霊媒としての感覚が目覚めてしまって、とても苦しくなりました。生きている心地がしない日々でしたが、支えてくれる人がいたのでがんばれたんですね。

今は霊媒という職業がかなり好きです(笑)。横文字にすると、チャネラーとか、サイキックなんとかって肩書になるのでしょうか。すっかり普及したのでスピリチュアルカウンセラーを名乗っていますが。個人的には「霊媒」でいいです。翻訳するとやっぱりチャネラーでしょうね。

ペットとの霊的な交信

獣医さん、ペットサロン経営者さん、ペットが好きな人達、動物とお話ができる人達…さまざまな接点で、ペットと深くつながっている人のご縁も多い。そういえばこのサロンのビル1Fにもペットサロンがはいっていますが知人です。

わたしたちの暮らしと動物との接点はきっても切れません。北海道は特に動物王国といっていい。家畜はもちろん、サラブレッドの産地でもある。野生の動物との関わりも深い。動物と関わって暮らしていくこと、人生を深めていくこともまた魅力的な人生ではないでしょうか。

動物のスピリットと交信することや、動物がもっている自然界の波動を利用して潜在意識を調整する方法など、この方面もとても深くて学ぶべきことがたくさんありますね。動物の意識と交信できる潜在能力を持っている方も少なくないですよ。その能力を開花させられたら、おおきな社会貢献につながっていくことでしょう。

数字の魔法

よく気になる数字についての意味を問われることがあります。
ひもといてみると、意外な意味がかくされている事も多いです。なんとなく目にとまる、思い浮かぶ、そんな数字でも守護霊さんからの意味深なおもいやりのこめられたメッセージだったりすることもあるかもしれません。