ポエム:「空の月」

誰もいない小さな部屋で、さしこむ青白い光をみつめる目。
しわくちゃの手、まがった関節。いたむ節々。
さすってくれる人もいない。声をかけてくれる人もいない。

あと何回、満月をみるまで命が続くのか。
生きようともしない、かといって死のうともしない命。

自分がどこからきて、なんの為に孤独死を迎えようとしているのかもわからない。
運命はあまりにも過酷だ。

ここで暮らしている人は皆、必死でいきている。
誰も隣人の生死をたしかめるゆとりなどない。
もはや自分は生きていてもしかたのない存在。

だが、死ねばかろうじてニュースで、孤独死老人の人数に加えられる。
だから、ひとりで死ぬほうがまだ少しは世のためというものだろう。

空の月には、わたしが見えているのか。
しろく霞む空の、青い月を、私は幾百回もみてきた。
終戦の日も知っている。東京オリンピックも、万博も、ビートルズ来日も私は知っている。
さほど大病もせずに生きてこれた。
地道に働いて生きていた。
あまり病院もいかず、薬ものまず、医療費で世間に負担をかけてきたつもりはない。

が、こんなにわびしい末路とわかっていて、歯を食いしばって生きてはこなかったろう。
誰にも看取られずに、この世とさよならするのなら、いっそあの日、津波に飲まれてしまったほうがよかった…
悔いることなどなかった人生だが、今日はさすがに人生がうらめしい。

国にも、町にも、仮設の隣人にもうらみはない。誰のせいでもない。
ただ人生がうらめしい。
ただ、あの青白い月が、遠すぎてわびしい。

お前はおれの余命をしっているのか。
これが最後なのか、あと幾度かお前を見つめる夜を過ごすのか。
お前はおれの心臓が止まる時をみまってもくれるのか。
せめて、おまえだけは、おれのひとりの夜を、みまもってくれるのか。

蒼い月よ・・・

シャーマンの記憶

久しぶりにメディスンカードをつかった。
この日のクライアントさんは、以前から自然霊との対話についてアドバイスをしてきたのだが、今回がある意味、本格的なコミニュケーションがはじまる最初のきっかけになったようだ。龍神を感じられる方にはたいてい大きな役割がある。ものすごい力を持っている神様なので選ばられた人しかつながることはない。準備が順調にすすむことを祈りたい。
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龍神がそばにいる時は、メディスンカードは磁力をもったかのようだ。カードが動きださんばかりにエネルギーが宿り、私達に非常にパワフルにメッセージを伝えてくる。すっかり忘れていたが感覚は眠っていなかった。せっかく授かった自然神とのコミニュケーション能力をもう少し使えるように磨いていきたいものだ。もっとも、シャーマンとしての力を発揮すべきタイミングは自分にとっても今まであまりなかったように思う。果たしてその時はくるのだろうか。まだその気配はない。

誰にでも開花の可能性はある

ヒーリングとか、カウンセリングとか、チャネリングとか、リーディング等々を行う人を「セラピスト、ヒーラー、カウンセラー、チャネラー」といったりする。なんでもいいけれど、とにかく「見えない世界のこと」とか「スピリチュアルなこと」を仕事にする人は、これまでは普通の人ではない、といわれていた。

だから、僕は普通の人間じゃないのかもしれないなぁと絶望的な気持ちになったことがあって、そんな心持ちでは生きるのが辛い。だから長い間、能力を隠してきた。でも、能力ってあっても使わないと伸びないし、伸ばして鍛えないとプロにはなれないもの。

じゃあ能力とか資質ってどれぐらい必要なのだろうか。

音楽でいえば、ミュージシャンになるとか、作曲家になるとか、音楽の世界で食べていけるようになるってどれぐらい才能が必要なのかということと話は似ている。

かつて才能も経験も学識も備わっている大先生や超有名ミュージシャンの人達となぜか接点があって、とにかくあの人達は凄かった。やはり偉大な人は違うな、と思ったものです。ただ偉大過ぎるとたちうちできないから、もう少し敷居の低い先生のほうがいい。で、自分にとって一番大変だったが、命がけてくらいついた作曲家の先生といえば田中公平先生。ある時なぜか共作で仕事をするハメになってしまった。むこうは百戦錬磨の達人だしプロ中のプロなわけですし業界では最高に有名人だし、実際ものすごいレベルの高い仕事をなさる。一方の自分はといえば経験も浅くて引き出しが少ないから、すぐに煮詰まってしまう。この圧倒的な力量の差の前でひたすら無力感でした。

でも付き合っていくとわかってくるのですが…先生はそれだけ努力してるんですよね。そこはプロの意地ということもあるし、それに見合うだけの下積みもある。そういった部分は一般の人からみえないのですが、同じ土俵にたってみるとみえてくるものが多々ある。だからいっきに同じレベルのことはできるはずもないし、そこで立ち止まってはいけない。思い返せば田中先生と共作してた時は毎日、眠れなくて。文字通り食事も喉を通らない日々。しまいには譜面に追いかけられる悪夢をみました。辛かった…。あちらはバークリー音楽院出身で、かたや自分は作曲法なんて独学ですしプロとしての経験ゼロだったんですから。横綱に小学生(いや小人かな)が挑むようなものでまるで次元が違う。その時に感じた圧倒的なコンプレックス。これが実はいい薬になりました。自分が未熟であることをとことん実感する。後で思うと、その後自分が作曲で伸びていく一番の糧になっていたと思います。だってその数年後に海外レコーディングをやっちゃったわけですから。あくまでサウンドトラック担当という枠ではあったけれど自分の名前でメジャーからCDも幾つかだしました(とっくに廃番ですが)。

そうやって音楽の仕事を一流の人達と肩をならべてこなしていく流れのなかで理解できたことは天才なんていないってことです。生まれ持った奇才、天才の類の人は業界にはほとんどいなかった。三枝成彰先生と仕事をした時に、先生がいった言葉が印象的だった。作曲は技術だって。その時に自分はとてもびっくりしたんです。え?作曲って才能じゃないんですか、と。それまで自分は音楽の才能がないと思い込んでいました。だって音感なかったですし、楽器もろくに弾けないし。音楽の仕事で伸びる要素は自分にはないと決めつけていたのです。三枝先生の言葉をきいてちょっと意識が変わりました。

音楽を作るには、たくさんの人と共同作業をしないといけません。発注する人がいて、受注する人がいる。そこから各担当者に仕事が割り振られる。楽譜を書いただけでは、なんにも形にならないのです。一般的な工程数でいえば作曲家が楽譜を書くのは100分の1ぐらいの比率じゃないでしょうか。残り99%の工程はいろいろな人が関わって完結する。

ヒーリングでもカウンセリングでも、なんでもそうですが天賦の才能なんて必要ありません。そりゃあったほうがいいけれど、たとえあったとしても伸ばす努力がなければ活かされません。しっかり勉強して学んで修得して磨いていけば、多くの人にはその可能性の芽がでます。あとは周囲がその人を活かすでしょう。なんにせよ一人で独学でやっていてはうまくいきません。認めてくれる人も必要、世に出るきっかけを作る人も必要。音楽とか芸術の世界であればオーディション的なものに応募するとかでチャンスもあるかもしれない。ある程度の独学もいい。けれど、実際に開花させようとする際には一人のちからでは無理です。

スピリチュアルな世界もやっぱり同じ。ほとんど(いや全てといっていい)は技術なんです。だから、きちんと学び、研鑽を積んで努力をする。ある程度、技が磨かれたら社会との関わりのなかで実践的に挑んでみる。そこまでの流れを一人でつくりだすことは不可能です。スピリチュアルな世界に限らず、なにか夢を持っていてそれをかなえたいならどこかに入門することです。あるいは、いろいろな経験者と接触をしてさまざまな体験を積むことです。先生は何人いてもいいと思う。でも、ある程度の期間はみっちり修行もすべきだし、世にでるきっかけや流れを作ってくれる人達との関わりを求めていく必要があります。

才能があるとかないとかで、けして悩まないで欲しい。逆にすこしばかり才能があるからなんとかなるとも思わないでほしい。しっかり学びましょう。地に足つけて時間をかけて積み重ねていきましょう。そういう人に社会は期待をするのです。ローマは一日にしてならずです。でも地道に積みさ重ねていけば自分の王国はかならず作れるのです。

だから、なんでも一人で考えこまないで相談するところからはじめましょう。そして学ぶ機会を求めること、磨く努力をすること。そうすれば人から頼られる人になれます。更にがんばればプロにだってなれます。

応援します。あなたにも必ずその機会は与えられますよ。がんばって!

七年期

アストラル体という言葉を最初に使ったのはシュタイナーなのか?定かではないが。彼の説によればそれは14歳から21歳で自律する。

が、どうも今の時代には少し補正が必要なのではないかという気がする。アストラル体の自律によって世界は真実に満ちていることを理解する時期なのだそうだ。オーラのエネルギーバランスが整ってくる時期であることは間違いない。21歳までに大体、安定するというのも実感とマッチする。だがアストラル体の自律が始まるのは14歳以降というのが、どうも実感と一致しないのだ。

これはエドガーケイシーのリーディングを読んでいても、シルバーバーチを読んでいても、とにかくあらゆる古典を読んでいて感じる違和感に通じるかもしれない。

古い知恵は尊いものだが、うのみにするのはどうだろう。自分なりに再検証してみる。そこから導き出される方程式と一致しなければ、どこかに不確定の要素があるのかもしれないし、方程式が未完成なのかもしれない。

0歳から21歳までの成長期間をどのように区分すべきなのか。改めての議論と検証が必要な時代になったのではないか。あるいはなんらかの強いエネルギーが子供の成長の方程式をかき乱しているのだろうか。

今日の徒然:亡き人の思いを読み解く

ご家族を亡くしたご遺族からのご相談もよくあります。もっと生きていて欲しかったという思いは皆さん共通。失った痛みに耐えることもそうですが、残された側が日々どう生きるべきか。死者の思いを問うことは、なかなかむずかしい。

先日、遺品をお持ちになられた方がいらっしゃいました。ひとつひとつに、旅立たれた方のメッセージがこめられていました。

ものにこめられた亡き人の思い。それを解読するのが自分の使命だと思っています。

それにしてもなぜかこういったご相談が以前よりも増えたように思います。

一生のご縁

会社員の6割が今の会社に一生勤めたいと思っている。そんなアンケート調査がある。ところが新卒で就職した人の35%が3年以内に離職してしまうそうだ。一生の勤め先にしたいが、実際にはそううまくはいかない現実がある、ということか。

人が人生につける仕事はそう多くはなく、一つの人もいれば幾つかを転々とする人もいる。たとえ自分で起業するとしても、ずっと同じ看板で通せるとも限らない。人は時代の流れに翻弄されるしかない小さな存在。そんななかで、自分を磨く。川底をころころと転がっていく石ころだ。流され、転がることでまるくなる。まるくなること、そのものが生きる目的のひとつでもある。それでも一生勤めたい、と思う心がある。

一生勤めたいと思うほどの企業との縁。一生添い遂げたいと思う相方との出会い。一生ファンでいたいというアーティストとの出会い。人にとって、一生を捧げるほどのなにか、というのは様々あるけれど、どんなことがあってもその気持ちがブレない、変わらない、永遠のものであるというほど大きな、強いご縁というのは、そう多くはないと思う。稀にそういうご縁を得られた人生というのは、それだけで産まれてきたかいがあったといえる。一生を超えて、永遠の宝になる。

あえていえば一生大事にしたいほどのご縁であるかどうかは、いつまでも心にのこる大切な宝であるかどうかが重要なのであって、本当に一生続けばよいというものでもない。たった3年でも、心に温かいものが残ればとてもよいご縁だったと思う。要は、そこでどれほど魂が充電できたか。それに尽きる。桃太郎のきびだんごのようなものかな。大切に思われることで、人は強く、打たれ強くなる。そして目的にむかって立ち上がっていける。本当に良いご縁というのは、ふらふらと流されていた自分を理由もなく拾い上げ、育ててくれ、一生生きていけるだけの力を与えてくれる、そういうご縁だろう。

今日の徒然:新月、そして魂のレッスン

ちょっとぐらっと揺れてびっくり。夜中に揺れると、とても不安な気持ちになります。特に今日は新月なので、いろいろなことが始まり、そして終わる。そんな日です。

新しい自分に出会い、対話し、これからの新しいサイクルを上手にスタートを切りたい。そんな方との出会いが新月の前後には多いです。

皆さんは知らず知らずのうちに、導かれ、自分にとって、一番いいタイミングで魂のガイドからメッセージを受け取っていますね。そして、自分では気づかない「心の声」をきいたり「身体からのメッセージ」に気付かされたり。過去の出会いから改めて感謝を学んだり。辛かった経験がなぜ必要だったのかを理解して、受け止め、不完全な自分を受容し、新しいスタートをきる糧にできたり。どうしようもない状況を、自分に有利な状況に切り替える心のしなやかさを身につけたり。そんなふうにスピリチュアルな変化を自分のものにしていきますね。

現実はあくまで私達が魂を磨く為の、教材のようなもの。周りに用意され、横たわり、がんとして動かない。そして時と共に刻々と変化していく大河のようなもの。自分はといえば現実に翻弄される木の葉のような小さな存在。ところが自我というものは、自分が小さな木の葉だとは思っていない。とても強い意思をもっていて、生きる意味を日々追求してやまない。無意味な時間には怒りをおぼえるし、成し遂げた結果には評価をもとめる。疲れればなにもしたくなくなるし、高揚すれば騒いで発散したくなる。獣と同レベルのどうしようもない本能もやどしている。大人になれば面倒な役割を演じていい人になるしかない。役にはまったら最後、本当の自分は押し殺して還暦後の余生に期待するしかない。すべてが自己中心で、身体と、心が満たされることだけを日々追求してやまない。それらが満たされなければ「たまたま自分はついていなかったのだ」と思う。それが人生というもの。

けれど、私達の魂は現実に満たされることを求めてなんかいない。富も名声も裕福な暮らしも求めてなんかいない。誰かにやさしくされたいとも思ってなんかいない。魂がこの世に生まれ変わってきて苦労を背負うのは、素敵な人に出会う為でもなく、家庭を持つためでもなく、奉仕をする為でもない。

魂は愛を受け取る為に、この地上にやってくる。

神様の愛という永遠の光を探し求めてやってくる。

それを簡単に見つけられる魂もあるけれど、何百年も、何千年もかけてゆっくりみつけていく魂もある。それぞれが、それぞれの探し方をもって生まれ変わってくる。それほど、この地上には愛の光がそこら中にころがっている。誰でも、幾つでもそれを見つけられる可能性がこの地球上には秘められている。ダイヤや金は有限だけれど、神様が隠した愛の光の粒子は無数にある。魂はそれを見つけにやってくる。私も、あなたも、あなたの周りにいる人もすべて。探しものは同じ。ただ、それぞれのやり方がある。それぞれのタイミングがある。そして、それぞれ「その他にもたくさんの用事」を抱えている。お世話になった人に恩返しをしなければいけなかったり、特別なお仕事を神様から委ねられていたり、仲間をみつけて支えたり。それぞれが産まれてくる目的がある。けれど、本当はたった一つの共通の目的にむかって地球上にやってくる。すべての魂は自分磨きをしながら、自分自身が神の愛の光となる。そうやって何万年も、何十万年も、この地球や、まわりの星や、星雲や、違う次元や、もっと別な宇宙やら、さまざまな世界でもっと多くの魂達は学びを深めつづけている。

でも、私達は、自分のことだけ考えて生きていけばいい。そういうふうにできている。この地球上では、そうするだけでいいことになっている。自分が存在する意味をしっかり掘り下げ、自分だけの目的にむかってまっすぐ進んでいけばいいことになっている。結局、それが地球全体の為になる、ってことになっている。

そういうわけだから。また次の新月にむかって、自分の魂が求めている生き方ってなんだろうと考えてみてほしい。その次に、今の自分の心の声、身体からのメッセージを受け取る練習もしてほしい。

魂のガイドはみんなそれぞれについているのだから、魂のレッスンを受けたいと思えば、その瞬間から学びはスタートできる。教材は願った瞬間に届く。そういうことになっているから・・・。

スピリチュアルのはじまり

今でこそスピリチュアルといえば、そういう世界?というある程度の定義付けが為されているので、オーラがどうこうといった表現は市民権を得た。前世の話はまだマニアック過ぎるのかもしれないけれど。見えないものがある、という前提の話が好きな人は増えたのかもしれない。

そもそもなにがスピリチュアルで、そうでないのか。

この世にあるものはすべて波動の存在なので、すべてがスピリチュアルであるという言い方、考え方は間違っていない。それは物理学でもあるし、哲学や神秘学でもあるだろう。だが、けして宗教ではないと思う。論理的につきつめて、考えたり、学んだり、そして感じたりするもの。

空気においしい空気や重い空気、冷たい空気があるように。そこに何かの気配があることを感じたりする。そこになにかおおらかなもの、楽しいものを感じる。そして、そこに「自分にとってとてつもなく大切なもの」を感じたりもする。

ふと、なにか覚えているはずのない遠い遠い記憶がよみがえりそうになったりする。

ふと、ここではないどこかにもう一人の自分が存在しているような気がする。

ふと、今この瞬間、まったく同じ感覚を味わっている人がどこかにいるような気がする。

ひとりでいるはずなのに、全然ひとりじゃない気がする。でも、現実には誰もいない・・・

あれこれ考えたり、感じたりしている自分がいったい誰で、どこからきて、なにをしたいのか、さっぱりわからなくなったりする。

食べたり、眠ったり、働いたり、遊んだり、その全てが「意味ない」と感じてしまう。

生きていてなんになるんだろう、と、とことん考えてしまう。そして、その答えなんか絶対みつかりっこないと思う。

汗水ながしてがんばってもがんばっても、これじゃない、これじゃだめなんだ、と思う。

ぼんやりしていて、もやっとしていて、つかもうとしてもけしてつかめたりはしない。でも、どうしても気になって仕方がない。けれど、いったいそもそもなにが気になるのかすらもわからない。とらえようのないなにか、漠然としていてつかめないなにか。

それでいて、とってもすごく、大事に違いないと確信している。

それがスピリチュアル。

はじまりは、もう一人の自分と向きあうこと。そこにいる「あの人」に出会い、対話すること。すべてのはじまりはそこからスタート。