石は柱のキズのごとく魂の成長を現しているのかもしれない

日々をかさねるごとに、魂はなんらかの形で成長していくものです。時に遠回りもあり、疲れることもあるけれど、時の流れには誰もさからえない。不生不滅(生きることにも、死ぬことにもとらわれない)とはいうものの、とらわれていくのが人生というものです。

ブレスレットを作らせていただく機会が少なくありません。石は変化したりしない。かわるのは生きている私たちのほうです。時間がたつごとに、次第に石と波長があわなくなってくることもある。石も疲れるので、あまり疲労がたまるとブレスレットそのものが壊れてしまうことさえ起きうるものです。

時を経て戻ってきたブレスレット。時折り、おや?と思うことがあるのです。それは、「もうこの石はいらない、別の石が必要だ」とブレスレットが訴えてくる。幾つか石をいれかえてみると、今現在のその人の姿とぴったり一致する。要らなくなった石、あたらしく必要になった石。それぞれを見比べてみると、魂がどれぐらい成長したのかが一目でわかります。

人生で大切なこと

人生のビジョンとはなにか、ということがカウンセリングを行う時に、実はかなり重要な要素になっている。相談内容がなんであれ、霊視する時にはその人が潜在的に携えている人生のビジョンを感じ取っている。はっきりみえている、といってもいい。

だからけしてぶれないアドバイスができる、ということだ。どんなに厳しい意見であっても、受け取る人にとって必ず糧になる、ということがわかるのは相手の人生のビジョンがみえているからこそ。

ビジョンがあるかどうか、ということは本当に大切だ。また、支え合う関係性においてもそれぞれのビジョンが合致しているかどうか、共鳴しあっているかどうか。なんらかの形で連帯があればうまくいく。だがビジョンが合致しておらず、共感しあっていない関係性においては、どちらかの魂が著しく疲弊していく。5年、あるいは10年という年月のなかで少しずつなにかが崩壊していく。

ビジョンは簡単に定まるものではない。そして一生かかっても尚、形にすることが難しいこともある。それでも、人はビジョンを探し求める。関係しあうなかでお互いのビジョンを探り合うこともある。一生かかっても、掘り下げ、定め、そして具体化しようとする。結果のでない人生もある。だが、良い結果、悪い結果、というのはないのである。いかなる人生であろうとも、ビジョンにむかって進んでいくことがなによりも一番、重要なのだ。

なにかを信じること。みつめつづけること。保ちつづけることだ。

ビジョンをみつけ、さだめ、形にできた!完成した!そんな人生など存在しないのでないだろうか。

楽をするかどうか決めるのはあなた

とっても大変だけれど、やりがいのある仕事、充実感も達成感もある。でも消耗するし、ずっとつづけていくのは正直辛いものがある。

いっぽうで、大変さはかわらない、仕事の重みもけして軽いわけでもない。充実感、達成感もしっかりある。消耗もするんだけれど、それ以上に元気になれる、幸せな気持ちになれる。そして、これならずっと続けていけるだろうな、と「はっきりわかる」。

仕事にもしも2つの種類があるとしたら。どちらを選ぶだろうか。

選べるなら「楽なほう」と人は思う。それなのに現実はなかなかそうはならないもの。自分が苦労する分には耐えていけるから、仕方ない。人生とはそんなもの。そう思っている自分がいる限り、なかなか楽にはならない。

ところが、そう考えている人のパートナーにとっても、同じ試練がのしかかってくるとしたら。パートナーは、もう楽な生き方にしたい、すぐにでも切り替えていきたいと願っているのに、自分が意識を切り替えないばかりにパートナーにも辛い人生を歩ませてしまうとしたら。それでも、楽できる人生をあきらめる?

音楽で生きるということ

「ギャラリー門馬」でのウォンさんと及川さんのジョイントコンサートが終了。今年もいつもと違う空間で、違う時間を味わうことができた。

運良く打ち上げにも参加。ミュージシャンがあつまると音楽がはじまる。いろいろな人が少しずつ才能をもっている。面白いな。

音楽は純粋でいい。我が消える。人の内側から生まれ出るもので、こんなに美しくて純粋なものがあるだろうか。特に歌はいい。周りの人みんなが、ああいいな、と思う。

でも、いざステージに立てといわれて、和やかな場、空間、楽しい時間の流れのなかで、あるがまま自然に沸いてくるような声を出せる人がどれだけいるだろうか。

人は依存し合わなければ生きていけない。

自分と誰かがふれあっていて関わりあい、そこから生まれる温度差によって化学反応がおきて歌も生まれる。

まず報酬が、プライドが、条件が、と本質じゃないことが優先したり、誰かに強制されたりして、祭りの音頭のように自然に生まれてくるのではない歌が、はたして人の心をひきつけるものだろうか。

仕事で音楽をやっているとものすごく消耗する。実際、消耗し尽くしたこともある。職業音楽家は苦しいな。自分には向かないと思った。でも音楽は好きだ。好き、というよりも自分の一部だ。それができないのは苦しい。

気づけば、自分もいろんなことを背負ってしまう歳になったのだ。

12歳先輩のウォンさんの力強さと、一方で純粋な表情の両方を垣間みることができるだけで、本当に励みになる。このご縁がなかったら、音楽への情熱をとっくに見失っていただろう。

人はお金の為に生きるのではない

なんて当たり前のこと。
それなのに、いつの間にかとらわれてしまうのがお金のもつ魔力とでもいうのだろうか。
だからこそ、その「魔力」を通じて学びを深めることができる、ということも往々にしてあるもの。
だが、できるだけとらわれないで生きていきたい。

今回の相撲界の不祥事で貴乃花理事が辞職願をだしたそうだ。受理はされなかったらしい。受理されると思ってだしたわけではないだろうが、辞職願を提出することが大切だったのだろう。

人はなにかを強く訴えたい、という時にあえて自分を窮地に追い込むようなことをするものだ。

昔、課長職時代にちょっとした不祥事(と当時の自分では思い込んでいた)をやらかして、職を辞したほうがいいのではないかと悩んだ。が、相談するのはかっこわるいと思ったので「進退伺い」というのを上司につきつけて困らせたことがある。もちろん、そんなものは受け取ってもらえなかったが、それをきっかけに少し話しができたので、気が済んでしまった。自分の場合は、ただ話しをきいてもらいたかった、ということだったのだ。振り返れば幼稚ではずかしい。

また、ある時、給与査定に文句をつけたことがある。その時の自分の言い分は「なぜ今年も年俸があがらないのか。だめな理由があるならちゃんと下げてくれ。少しでもいいというところがあるなら1円でもいいから昇給させろ」というものだった。これもまた思い出すだけでも恥ずかしい。人間は5年も評価されずに放置されていると腐るものだ。当時の会社の言い分は、こんなに高い給料を払っているんだから、ほうっておいても大丈夫なはず、というものだったろう。たしかに自分は扱いにくい人間だったと思う。中途半端にアーティスト気質が強く、組織の中でそれなりにうまく生き延びていて、なんだかんだと仕事の実績は積み上げていたし、自分がいなければ会社が回らないという事も実際に多々あったのだから。傲慢でもあったが、結果はだしていたと思う。実際、かなり高給取りだった。それなのに5年ほうっておかれて、1円でもいいから上げろ、成果がたりないというなら下げてみろ、と因縁をつけたのだった。まったく恩知らずとはこのこと。会社にしてみれば飼い犬に噛まれた気分だったことだろう。

でも、あの時の自分としては本音だった。評価されているからこその立場、役職、給料だった。それがわからなくなるのだ。自分のやっていることがこれでいいのか。何年も評価されないと、次第にやる気が失せてくる。がんばれなくなる。いらいらしてくる。きっと部下にもやつあたりしていたに違いない。ギャンブルこそやらなかったが(いや、ちょっとパチンコはやっていたかも・・・)趣味だなんだと浪費していた気がする。それもこれも、ある種の自己アピールであって、気にかけてほしい、注目されたい、という心の作用からくるものだ。それが積もり積もると、年に一度の給与査定の面談で爆発する。

でも給与を払う側からすれば君の1年間の査定は1円だよ、といえるわけがない。人生のモチベーションをどうしたら得られるのか、という無理難題を相手に委ねていた自分は間違っていたと思う。

スティーブジョブスの給料は1ドルだそうだ。世界で一番いい仕事をしている人のモチベーションはいったいなんなんだろう。それを彼は自分で人生のなかで見つけたんだろう。だから大病をしても、必死で仕事にくらいつき最高の成果を出し続けている。

天才と自分を比べるわけではないが、1円で100%以上の力を出し切れるかな、と考えるとまだまだ未熟な自分がいる。お金はあったほうがいい。時々、パチンコでもやってパッと盛り上がりたい…でも、自分の魂はお金を通じてなにを感じたいのか、なにを学びたいのか。そう考えると「まったく重要ではない」と答えがかえってくる。「お金はあくまで手段であり、道具でしかない。けして振り回されるべきではない。目的や志の介在しないお金は、地面にこぼしたミルクのごとく、本来の力を発揮せずにむなしく消えていくだけ。」

人生は方向性を定め、しっかりと前進していくことが大事だ。心が通じ合うことができないから、言いたいことが通じないから、といってお金のせいにしてはいけないのではないか。でも、日常の自分の心模様、じっと静かにみつめてみると「お金があれば・・・」というつぶやきが幾つ聞こえるだろうか。一度、たしかめてみるといい。

まとまらないが、お金についてふと思った徒然。

心理学

臨床心理の本は学生の頃にむさぼるように読んだ。もう大学にはいってしまった後だったので、こんなに面白い世界があるなんて…と気づくのが遅かった事にかなり後悔したほど。ただ、その時点で方向転換を考えなかったのは、やはり自分にとっての適性ではないと感じていたからだったのだろうと思う。人の心が学問としてひもとかれていく、その奥深さ、面白さにぐいぐいのめりこんでしまった。よく講義をさぼって図書館にひきこもっていたものだった。

最近、さまざまな立場の人に出会う。そのなかには心理学の専門家の方もいる。自分は今、ある程度スピリチュアルな視点で社会と関わっていてそれなりの年月を重ねてきた。まだまだ駆け出しではあるが、垣根をこえて別な立場から「人の心」に関わっている人と意見交換できるまでになった。お互いに持っている手段は違うが、目的はひとつだと感じる。ジャンルの違う専門家が手をとりあって連携していけば、もっと多くの人をしっかりと支えていける。そんな時代がやってくる。新しい時代の潮流を自分達の手で生み出せる。そんな希望を少しずつ持てるようになってきた。

もうひとりじゃなんにもできそうにない。連帯だ、ネットワークだ。これからは横のつながりがすべてだ。それぞれが自立して活躍しているけれど、見えない横のつながりでしっかりと支え合っている。そんな未来の絵が見える。

学びとは

人はいかにあるべきか。

ひたすら学び続けるべきである、と思います。
そんな厳しい、難しい人生は嫌だよ…と考える人も多い。
どう考えるかは自由です。

でも、魂をもって生まれたわたしたちの命題は「学び」であることは間違いないのです。
もちろん、「学び」のスタイルは無限。どんな方法、スタイルでもいいし、人それぞれのやり方があります。遊んでいるようにみえてもそこに学びがあればいい。

ヒーリングやカウンセリングを「他者にほどこす」ということも、大きな学びになります。学びというと「知識を学ぶ」ことだとか「学校で学ぶ」ものと定義づける方も多いように思いますが、魂の学びというのは「魂が発展成長すること」につながらなければなりません。知識であるとか、学校での学びというのは、魂の成長にとってはあくまでも準備にしか過ぎず、ほんとうの意味で魂が発展成長を遂げる糧になるものは「行い」のなかで得られるものです。

レイキの教えに「業をはげめ」という古い言葉があります。これぞまさしく魂が成長を遂げる為に必要な糧でありましょう。

ではいったいなにが自分にとって「業をはげむこと」なのか。その定義はひとりひとり皆違います。まずは他人と自分を見比べないことからはじめましょう。

より堅実な前進の為に

今月にはいってから「開運」を意識したセッションをこころがけています。
平坦な日々であっても、わたしたちの人生の足元のコンディションは、微妙に変化しています。
それを読み取って、より疲れにくいよに、足をとられないように、上手に歩くことを心がければ自分のペースを見失わず、疲れにくく、故障もせずに日々前進できるもの。

なにも問題がなければないなりに、心がけ、注意すべきことはなにがしか見いだせるものです。

宅配の時間指定とベンサムの功利主義

この頃、外国に商品を注文する機会が増えた。ネットで国内へのオーダーとなんら変りなくできるようになった。少し敷居の高かった個人輸入が非常に簡便で身近になったことはありがたい。昔、個人輸入をはじめたころはオーダー用紙をFAXする為に英文タイプでガチャガチャ打ったりしたものだ。FAXできたとしても届くまで発注手続きが間違っていなかったどうかはわからない。無事に日本に着いても税関で止められたり税金でトラブって先方と英語のFAXをやりとりするはめになったり…苦労が多かった。その当時を思えば、今は英語圏についてはまったく境界がなくなったような感覚だ。ただ一点をのぞいては。

それは「時間指定」ができないということだ。国内の通販については(アマゾンはまだできないが)ほとんどが配送時間指定が可能だが、海外からの荷物はそうはいかない。「時間指定」はとても便利だ。2時間ぐらいの範囲で到着時刻を指定できる。これはすごいことだと思う。一旦この便利さになれると時間指定ができない業者より、時間指定ができる業者を選ぶようになってしまう。

ある時、宅配業者が指定したのと違う時間帯に荷物を持ってきた。できれば来て欲しくないタイミングだったのでクレームをつけたところそれ以後は改善された。北海道の人は全般的にこの程度ならクレームをつけないのではないか。冬の交通事情が悪い時期はどうしても時間通りに届かない。それに慣れていると、たとえ夏でも配送時間がルーズでも「なにか仕方のない理由があるのかもしれない」と考えてしまうのではないか。
北海道人の気質には、困った時にはお互い様というのがあると思う。相手のミスをなんでも受け入れてしまう「甘さ」がある。もちろん支え合っていこうという連帯感からくる「命がけで必須の」甘さだったはずだ。昔は「郵便」が通信、配送のかけがのない手段だった。吹雪の日などは命がけで配達していたことだろう。予定通りに届かないからとクレームをつけることはなかったはずだ。開拓時代のなごりは当然だが、もはやインフラは完成されたのだしこれからはわたしたちは意識を変えていく時期にきているだろう。

だが、どう意識を変えればいいだろうか。
配送時刻が時間指定と違ったら必ずクレームをつけるべし、でいいのか。豪雪の日にそんなクレームをつける人はいないし非常識と思われるだろう。でも、本当にそれは非常識だろうか・・・。

わたしたちはその回答を持たない。でも、なにか共通の概念や倫理観を持つようにしなければいけないのではないだろうか。

こういう時にベンサムの功利主義ではこう考える…などという哲学の時間が小学校にあってもいいんじゃないか。公立では無理でも、私学なら可能だろう。

高校は私立カトリック系だったので毎週1時限だが聖書の時間があった。他にも倫理という授業もあったがかなりカトリックに傾倒していたような気がする。聖書も倫理も、どちらも宗教、思想について学ぶ時間だった。難解な数学よりは興味をもてたが、ありきたりの解釈は正直なところつまらなかった。リアルに自分にとって人生の血肉になるような授業ではなかった。

わたしたちの人生はとても短い。世界中の人に普遍な知識も大事だろうが、今、この北海道で生きていく自分達に価値ある思想や哲学が学べるのなら、とても意義があると思う。

利益を生むこと、利益を得ること

利益を生むことについては、冷静沈着で積極的であっても利益を得るという段階になって消極的になってしまうことがある。
その背後には罪悪感が潜んでいる場合がある。

利益を得ることがたとえ正当なことであっても、どういうわけか罪悪感が伴なう。
この感覚はどこからくるのだろうか。
もし、そのことと向きあってコントロールできるようになれば、利益を生むことに、実はもっと積極的になれる可能性があると感じている。
お金がからんでくると、人間関係はとても重く、粘着質になってくる。なかなかその事に慣れない人も多いようだ。

大きなお金を動かしているのに、とてもさらっとしているオーラを放つ人こそ本当のビジネスエリートなのかもしれない。