あなたのペースでいい

人と比べる必要なんてない。
人生はずっとあなたのペースでいい。

もしも、自分らしさを見失っている時なら、しばらく休むのがいい。
友達と会う、自然にふれる、セラピーを受ける、祈る、食べる、眠る・・・そんなこともいい。

もしも心が少し高まっているのなら、なにか新しい世界にふれるのがいい。
はじめての本を読む、はじめての土地に旅をしてみる、はじめての色を身につけてみる。
はじめての音楽、絵画、演劇・・・それがきっといい刺激になる。

もしも自分らしさを追求する気持ちすらとりもどせないのなら、
しっかりと足元を見直す時期なのかもしれない。
なにをやってもうまくいかない時期も人生には時々やってくる。
お祓いをしてもらうのもいい、運気をあげる工夫ならいろいろな知恵が古くから伝わっている。
神頼みや信心も時には大切だ。

なんにせよ健康が一番大切。
次に心の調和。
これらが損なわれていたら、自分のペースを保つことは難しくなってしまう。
体がぎりぎりで耐えている状態なら、年を重ねるにつれてリスクが高まっていくばかり。
どこかで見切りをつけなければいけないこともある。
心の芯がすっかり冷え切っているのなら、どんなにがんばっても
充実感すら感じられないかもしれない。それではなんの為に生きているのかすら
わからなくなってしまう。

まずはなにごともバランスが肝要なのだから、
ひとつずつ、少しずつ調整しなければいけない。
そうしていくうちに、次第に本来の自分をとりもどせるようになる。

なんにしても、
あなたの人生はあなたのペースでいいのだ、ということ。

夢と重心移動

高いところから落ちる夢、あるいはジェットコースターとかエレベーターで身体が浮いて落下していくような感覚の夢、あるいは空を浮遊しているような夢・・・これらはいずれも身体の重心が変化していることが影響しているようだ。

年齢的なもの(成長期には日々刻々と重心が変化しているので)、一時的なものなど理由はケースバイケースだろう。
一時的なものにはストレスからくるもの、体調の変調からくるもの、季節の変化や場所を移動して大地との調和が変化した場合などもあるかもしれない。生活環境の大きな変化があると、よく全身の気のバランスがかわるので重心がわずかに揺れるもの。

魂の課題がもうない、という段階からの「目標」とは

輪廻はもうおしまい、もうそれ以上魂を磨く必要がなく来生も存在しない。
そういう人生を生きている人もいる。

ところが、前世ですでに一度、魂の修行をすべて完了している(いわゆる解脱している)魂が
再び、生まれ変わってくることがある。

もはや来生は存在しない、という段階になると、もうその魂には「負の遺産」がない状態なので宿命的な課題はやってこない。わりと自由に、平凡に、そして穏やかに生きていくことができる。いわば魂が「自給自足できる段階」にはいっていくのだ。
人や世間と関わらなくても、淡々と存在していける。社会にも、他者にも、自然にもダメージを与えず自分の存在感を消して生きていくことが可能だし、逆に「そうしてもいいよ」という自由を得られた段階。

でも、そういう魂をもつ人であっても、社会の最前線で活躍し続ける人もいる。そして、また生まれ変わってくることすらある。

魂がすっかり自分を磨きあげることが終わったとしても、そこから更になにか次の目標をみつけて更に進化を目指す魂も実際には存在するのである。ところが、その目標を見いだせず、すっかり自給自足に甘んじて自分の存在をけして、ただただ天に帰る日を心待ちにしているような人もいる。それはそれでなんの問題もない。うっかり余計なことに手をだして失敗して、また人生をやりなおすようなリスクを犯す必要はないのだから・・・。

でも、最終的に「自由」を手にした魂にとって、その先の新たな目標を創造していくことは非常にレベルの高い次元に自らを引き上げられるかどうかの、大切なことなのだ。それをするかどうかも、自身の自由。そこでリタイヤしてもまったくなんの問題もないし、それでも完璧に祝福されるし無限の愛で満たされるだろう。

もう生まれ変わらない、ということ。

輪廻転生は永遠に繰り返されるわけではない。
魂が、すっかり学ぶべきことを学び、磨きあけることがすっかりできあがってしまえば、もうそれで修行はおしまい。
そういう最後の人生であるかどうか、という問いかけをいただくこともあるし、前世のいきさつ、そして今生での魂が携えている目的をひもとく流れのなかで、もう来生というのが存在しない、という情報が出てくることがある。

どの段階にあろうとも、魂はみな等しくこの世に進化成長をねがって生まれ変わってくるのであり、皆等しく神に愛され、その懐で見守られながら生きるチャンスを授かっている、という真実はけしてかわらない。

智慧ある言葉

ほんとうの智慧ある言葉とはどんなものだろうか。
慈愛、思いやり、希望、光にみちたものだろうか。
可憐で優しく美しく連なる言葉だろうか。

しかし、失意の底にある人に対して希望や勇気を呼びかけるのは時に残酷である。
あと一歩、励ますだけで葛藤から脱皮できる人に、厳しく叱咤するのはあまりにも浅はかである。

ほんとうの智慧とはなんだろう。
それは大きな視野を持つことではないか。
そして、その視野の広がりが相手の行いすべてを許しているかどうか、ではないか。
そうすれば、その言葉は時に辛辣な批判であっても、甘い愛の言葉であっても、必ず豊かさや幸福の波をひきよせるものとなるだろう。

しかしながら、狭い視野から放たれるもの、けして他者の行いを受容しているとはいえないもの。それらはおそらく人を惑わせ、かえって苦しめるだろう。そして、その苦しみの連鎖がやがて愚かな智慧を解き放った者へも因果とてかえってくるだろう。

私たちはいつでも、まず自分自身に昨日よりも、今日、今日よりも明日、自らを磨きあげ、努力していることを課していかなければならない。自らを受容するということ、自らを大切するということと、魂の修行の為に精進を止めないことは同時にバランスよく保つべきだろう。人生はとても難しい。簡単ではないからこそ、人生なのだ。美しいものや優しいもので満たすこと、支え合うこと、慈しみあうことだけでは不十分なのだ。

胎児の記憶

3歳ぐらいの子供が、お母さんのお腹のなかにいた頃を覚えていて、いろいろな説明をすることや、それらが奇妙に一致することはよく知られています。(臨死体験においても、多くの経験者が非常に似たビジョンをみることがあるという研究レポートもあります)不思議といえば不思議ですが、本当に胎児はその状況を記憶していて、生まれてから約3年が経過し、言語を習得した時に「3年前のことを思い出して語っている」ものなのでしょうか。

子供の潜在能力は大人になってそれを失ってしまった今となっては、完全に忘却の彼方なのですが、実に幅広い感知能力を持っている(いた)ようです。生まれたばかりの小さなあかちゃんが、なにもない空間をみて目で追ったりリアクションしていることも、実によくあることです。そういった幼少期の不思議な体験というのは、大人になるとまったく覚えていないもののようです。記憶というのは実に曖昧で、そして頼りないものですね。そして人類はやっかいなことに想像や空想する力を持っています。もっといえば他人の意識に共感し、感知する能力ももっています。いったいどこまでが子供の本当の記憶なのか、そうでないのかは簡単に判別することができないのではないでしょうか。

本当に胎内の記憶なのか、ということについては半信半疑と思っています(やや疑の比重が大きいかな)

とにかくやってみる、ということ。

時に「とにかくやってみる」ということも必要ではないか。
私たちにはとかく考えすぎる傾向があって、あれこれ「やってもみないで思い悩む」もの。
だが、なにごとも結果オーライである。だめなら、それはそれで学びになる。
であるならば、なにも損はないではないか。であれば、とにかくやってみる、というのも悪くない。
特にあまり時間がない方には・・・。

春。

春先には体調の変化を感じる。新しい季節に自然はおおきく衣替えをする。大地に種をまく人達は、この時期天気がきになるだろう。実際、寒い日がつづく。それでも私たちは衣替えをしなければならない。心も体も、それをのぞんでいる。たとえ寒かろうと、やはり衣替えはしたほうがよい。が、こう寒くては風邪をひきそうだ。。。ご注意あれ。

ヒーラーと出会うということ

みずからの未熟さを認める、ということは、時にとても大切だと思う。
心がすごく疲れている時はえてして、そんな自分を認めることができないでいるか、認めることすらも許していないか。
人生は努力も忍耐も必要かもしれない。が、時に自分を甘やかしたり癒したりする必要もある。

自分のこころを他人にすっかり委ねてみるのは案外勇気がいる。
みずからの未熟さを認めることができたとして、そのことを誰かに受け止めてもらえるかどうか。
そこまで他人を信じて自分そのものを委ねられたら、かなり楽になれるのではないだろうか。
委ねる側には勇気や思い切りが必要になるだろう。
受け止める側にはスキルと魂の度量が求められるだろう。
相性も大切でしょう。

いい関係を築けるヒーラー(癒し手)と出会うのは簡単ではないかもしれません・・・

自分を信じること

時々、痛感する。もっと自分を信じようよ・・・と。若いうちならまだしも、この年になると意外なところで自分が歩いてきた航跡を振り返る機会がおとずれる。特に僕のように人生前半とその後でまったく違う仕事をしていると、尚更だ。

そんなおおげさなことでなくともいい。書類をきちんと整理してあったかどうか、とか。過去の自分をもっと信じようと思うことがよくある。探していた書類なんかが見つからない時に、整理しなかった過去の自分を呪うわけだが、整理していなかったのではなく「整理すべき書類なんて存在しなかった」という勘違いだったりすることがある。探しても見つからないわけだ。思い込みは怖い。自分を信じられないのなら問題はないだろう。もし他人を信じられないとしたら、お互いにただ気まずい思いをするだけだ。まず自分で練習しようよ、と思う。信じる練習を。そのほうが気持はポジティブでいられる。