直会(なおらい)〜神々の前に直らう

御神事の後で、お供えをさげていただくことを直会(なおらい)といいますが、もともとは禍(わざわ)いを直すこと、という意味があります。

神様に祈願をした後に、お神酒をいただいたり参加者同士でともに食事をとること、その時間のなかで神々が私達の心や身体を口からはいるものを通して直してくださる。そんな大切な場面でもあります。

集うことが苦手な方もいるかと思いますが、直会にもできるだけ参加することで、願いが叶うのだとしたら都合をつけて参加する意味はありそうです。

私も長年、いろいろな修行の場に参加してきましたが直会(のような場面)はできる限り参加してきました。そのすべてに意味があり、因果として結果がはっきりともたらされたように感じます。

レイキを通してどのように変われるか

レイキを学んでいただくことで、どのような変化がおき、具体的にどんな恩恵があるか、きちんとお伝えしきれていなかったような気がします。日々、時代も変化し、私達のおかれている環境も激変しているこの時流にあって、最善の取り組み方を日々模索していますので、発信すべき内容も刻々と変えざるを得ません。その時、そのタイミングでご縁があればお伝えする、という姿勢は変わりませんが「今日の段階でのひとつのまとめ」ということでここに記しておきたいと思います。ただ、明日にも変わるかもしれませんし、情報が不適切になった場合は予告なく削除したり変更することがありますのでご了承ください。

レイキは普遍的なエネルギーだが、私達は不安定な存在であり定まることはない

レイキの根源のエネルギーにはぶれがないけれど、私達はこの地上にあり、今の時流にのまれ翻弄されている現状、不調和に満ちています。基本的にレイキは「浄化」をうながし「調和」をもたらすエネルギーです。その特徴を最大限に発揮すべく、レイキのトレーニングを受けていただいています。講習はここ数年、個人レッスンのみで行っていて、ひとりひとりに適した実践方法でお伝えしています。ここに至るまで十年以上の歳月をかけてこの形になりました。過去に受講していただいたすべての方からのフィードバックがあり現在に至ります。多くの方の実践の積み重なったものが、私の技術として集約されていますので、ご縁のあったすべての方への感謝を表す為にも、このやり方を続けていこうと思っています。

個性にあったレッスンの意味

一律の講習を受けていただいたとしても、その方に合ったものとはいえません。レイキは日々実践していただくことで結果が出ます。一日10分でも20分でも、できるだけ毎日続けていただくことで、数ヶ月〜数年後には大きく変化します。その貴重な10分の効率がさほどよくなければ10年実践しても結果がでにくくなってしまいます。本人に適した方法を実践していただければ、時に数週間で最大限の治癒が置きますし、人生が安定し、向上します。

私の教え方は、完全にひとりひとりに特化した内容で、特に日々の実践していただくメニューは個別に考案します。レベル1では2〜3か月かけて修正して最善のものにしていきます。レベル2まで進まれた方は更に様々な技法を組み入れながら、その方の日常生活に自然に組み込めるような形で最大限の効果が得られるような内容にします。

がんばって努力しないと続けられないような難易度の高いメニューにしてしまうと継続できなくなるおそれがあります。一般的な講習では、一律同じ内容を実践するように学ぶだけで、それを10年やったところで意味がない場合もありえます。人により不調和の原因は様々ですし、なかにはそもそもレイキを学ぶ必要性のない方もいます。ほとんどの方は、その方にあったメニューを実践することでたくさんのメリットにあずかれます。

メリットその1〜体調面

基礎代謝があがりますので、血流の改善により細胞が活性化します。疲労回復が早まり、不調の箇所が自然に治癒します。ほとんどの方が1〜2か月で効果を実感されます。

メリットその2〜メンタル面

ストレスが軽減します。感情が安定しますので、対人関係が向上する方が多いです。過去のとらわれも自然に軽くなりますので将来にたいして明るいビジョンを描きやすくなります。レベル2に進まれた方には苦手な感情や、過去の体験にフォーカスした浄化、調和のメニューを実践していただくことで対処できるようになっています。

メリットその3〜人生を歩む意味

このあたりからレイキの講習のなかに、私ならではの、つまりスピリチュアルな側面からその方の人生の方向性についてのアドバイスなども含めながら、「自分のあるべき姿、進むべき方向性」について深めていく為の「内観」を取り入れています。特別な瞑想のメニューを実践していただいています。特にレベル3まで進まれた方の多くが「自分を再発見」されてました。それによって人生をより自由に充実したものにしていただけます。

今の時代ならではの問題ともいえる自立神経系のトラブルについて

かくいう私自身がそのトラブルを若い頃から保有している人間でして、レイキを学び実践し続けているのも自分がもっとも必要としている、そしてその効果を深く実感しています。眠れない夜があっても、不安にさいなまれてもがいてしまうような時も、穏やかに、速やかにバランスが整っていきます。またストレスからくる様々な症状を列記しますが、
・呼吸の乱れ(慢性疲労、無気力、集中力の欠如につながります)
・動悸(胸の不快感、痛みをともないます)
・みぞおちの不快感(食欲減退、嘔吐につながることも)
・前進のだるさ、関節の不快感や痛み
・ほてり、冷や汗
・突発的な感情の乱れ
・不安にとらわれて心が身動きできなくなる(将来への絶望感から逃れられない感覚)
・パニック発作(死んでしまうような恐怖)

ざっとこれぐらいでしょうか。私も日々、これらの症状が大なり小なり昔から続いているわけですがレイキを実践しはじめてから本当に減りました。ただ最近は時流なのか、また症状が増えてきた気がしますし、それは私だけではなく、世の中の多くの人がこれらの症状を感じ始めているようです。実際、今年にはいってからぐんとこういう症状を訴える方が増えました。レイキは特効薬といえるほど即効性はないのですが、副作用もありませんし日々実践していくことで基本的な治癒力が向上し学んでおくことで対処ははるかにしやすくなることは間違いありません。

ただ前述しましたように、個々に体質も気質も違いますのでその方にあったメニューを実践しないと効果がでにくいのがレイキの難しい面でもあります。どこでも誰にでも習っておけばメリットがある、ということはないので、受講を考えられている方にはしっかり見極めて選択していただきたいと思います。

自分にどのようなメリットがあるか知りたい

という方も多いかと思いますが、その方のエネルギーの状態をしっかり見極めなければ回答のしようがないことなので、やはり受講していただくよりないというのが実際のところです。事前に一度、カウンセリングを受けていただければおおそよの可能性については回答できます。

光のサロンでレイキを学ぶもうひとつのメリットについて

レイキは世界中に広がっている技術なので、どこでも習えます。今時、レイキの教師は本当にたくさんいます。実際、ほんの数日間の講習で教師になれます。私はこのレイキをこういった形で教えられるようになるまで修験者としての修行時代から数えると20年以上を要しました。レイキを教えることはさほど難しくはないのですが(とてもシンプルな技法ですから)、学んでくださる方にとって最善の結果を出していただく為には、受講される方のエネルギーの状態を見極めることが非常に重要です。体調不良の原因はなんなのか、なぜ自律神経が乱れてしまうのか、その原因を掘り下げていく為に長年の経験が生かされています。見極めができることで、最善のメニューを提示できます。それを日々実践していただくことで素晴らし結果がたくさん出ています。多くの方がどんどん回復し、不安から解放され、前進できるようになりつつあります。これは今は胸をはって断言できるようになりました。多くの方とのご縁があっての賜物です。本当にありがたいことです。

補足

また光のサロンでは、レイキを最終段階(レベル3)まで習得された方を対象に、高次元の存在とつながるワーク、宇宙意識との調和のワーク、他者のオーラの状態を読み取るリーディング能力開花のワークなど、さまざまな応用技術の講習を個人レッスンで対応しています。いわば後継者育成です。学びに終わりはありません。いつでも何度でも勉強にきていただきたいです。

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ネイティブの重さ

このお題はすごく重たいテーマなんだけど、かる〜く書くことにします。
ネガティブにフォーカスすると生きるのは嫌になっちゃうから。
でも、ポジティブにフォーカスすれば、こんなに素晴らしいことはない。なぜなら孤独から解放されるから。一人ではない、ということを感覚で実感できる。

私は人から理解されたくて、あえて「霊感」という言葉を用いるけれども、私がみえないものを感じられる理由は魂のルーツがネイティブだから。ただそれだけ。もともとは自然の一部。そういう魂を持って地上に生きている存在がほんのすこしだけど地球にはいる。その人達は、根底から自然の神々と一体なので、感じているもの、見ているもの、聴こえているものが「その他」の人と違う。この違うということを、お互いに感知できるのだけれど「なぜ違うのか」「どこがどう違うのか」をわかりあうこともシェアすることもできない。だから歩みよるのは大変難しい。やむをえず知識や経験を通して理解しあうよりない。数千年の歳月をかけても尚、その壁は高くて厚くて、乗り越えられる存在は多くないと思う。

「そうでない人」達からすれば、彼らは自然の神々とつながる教師みたいなもの。そして「そうでない人」達は、自然をどちらかといえば破壊してばかりで再生には興味がなさそう。神様の考えていることにも無頓着。

それでもネイティブ達は、けしてあきらめない。たとえ自分達のDNAが死に絶えても尚、けしてあきらめない。なぜならこの星が自分達の故郷だから。子孫がもう生まれ変わってくるチャンスがなくなったとしても、この星を見捨てない。いつかまた美しい自然が輝く時代になったら、彼らはまたひっそりと生まれ変わってくる。その時は人間の形をしているのかどうかわからないけれどね。

私は今この肉体はネイティブではないけれど魂のルーツはネイティブなので、ネイティブ達とアイコンタクトで理解しあうことができる。でも現実は普通の日本人なので、日本人のなかにいて友人もできなくて、仕方がないから空や雲や星と話しているうちに、この世で俗にいう霊感のある人になっちゃった。それはそれでユニークな存在ということで重宝がられて、おかげで職業が成立してなんとか食べていける。だからおかげ様でもあるのだけれど、この世に本当に居場所がなくアイデンティティを確立するのがすごく大変だった。いっそアイヌやイヌイットであったならよかったのにと何度も思ったけれど、選んでしまった家系はもう変えられないから。

自分のなかでは今更の話しだし、そもそも魂のルーツが違ったところで私が日々出会う人にとってさほど重要ではないのでね。こういう感性を活かして、皆さんといかに楽しく、明るい未来を創出し得るのか、そこが大事ですよね。

アイヌ民族の同志(魂が)が、がんばって活動しています。皆さん、どうか会いにいってください。彼が創りだす作品は、そのまま神々の祝福なんですよ。ひとつ持っているだけで、万が一の時に必ず守ってもらえますから。特に遠出が多いかた、必須です。

レイキとレイキではないエネルギーのはざまで

これはもしかすると以前、どこかで書いたのかもしれませんが、あまりきちんと意識して書いたことはないような気がします。

私が「レイキ」と、「それ以外のエネルギー」をどう使い分けたり感じ分けたりしているのか、についてです。これを説明するのはとても難しくて、中途半端に書いても誤解を招くばかりだし、意図的に伏せてきたともいえます。でも、それっぽいことを書いてみたり、レイキではないエネルギーワークをやってきたりしているので、なんとなく気づいている人は気づいているだろうし、そんなの最初からそうだと思っていたという人も多分いらっしゃるでしょう。

西暦2000年にレイキを学んだ時、これは素晴らしいものだと実感しましたが、それ以前から長年のさまざまな修行と神秘体験を通して感じていたエネルギーと比較している自分がいて、その違いはなんだろうとずっと研究してきました。最近になってやっとある程度の答えが出せるようになり、ここまで理解が深まれば教えたり伝えたりしていくうえで支障はないかなと思えるようになりました。ただ、そろそろレイキとそうでないものを分けて扱っていかないと、学んでいる皆さんに混乱を与えたり、誤解を招くおそれも出てきましたので、少しずつですが整理していきたいと思うようになりました。

私にとってはレイキはとても有効な手段でした。それそれによって素晴らしく心身が安定し、健康を回復しました。それは「めざましく変化した」といえるほど劇的でしたし、嬉しく有り難い体験でした。でも、私にとってレイキは「幾つもあるうちのひとつ」の手段でしかなく、これだけですべて満たされるということはありませんでした。

元々、私は霊的な感性があまりに鋭くて、森のなかにはいれば精霊の存在がわかるし自由に会話もできていました。人の背後にいる見えない存在たちの気配もいつも感じていましたし、自分が死んでいることに気づいていない方達ともたくさん交信をして、この地上のエネルギー世界をたくさん味わってきたのですが、そういった感受性故にとにかく疲れれていました。普通に生きることができないレベルまで神経を消耗しつつあったんです。それで厳しい修行を重ねていくなかで耐性を身につけました。その時に、たくさんの神秘的な技法(印やマントラ)を使ったんです。私は修験道で学びましたので、そこには古来からの秘技がたくさん伝えられているんです。それをひとつひとつ実践しながら自分に必要なものを選り分け、使っていくうちになんとか「自分と外側の世界」の境界線を確立することができました。そこからやっと宇宙とつながるというか、光の世界とつながるというところにフォーカスできるようになっていくわけです。その頃からアカシックレコードにアクセスできるようになりました。また高次元の意識(たとえば大天使たち)ともつながれるようになり、この世界の真理や、私たちの魂の由来について、神々の世界について学ぶようになりました。その探求のなかで、魂の輪廻の由来について無数の情報を受け取れるようになっていったわけです。

ですので、私のなかでは世間一般にいわれる「霊感」という感受性と、魂の輪廻の由来をひもとくアカシックリーディングに代表されるような「スピリチュアル」な感受性は、別々のものなんです。この段階ではっきりさせておきたいのですが、どちらの感受性もレイキでは活性化しません。根本的にレイキという技法がもたらす作用だけでは、霊感も、スピリチュアルな感受性も開花はしません。それぞれ相当な訓練も必須ですし、持ってうまれた資質も要因になります。まったく違う次元のものです。

私の定義では「レイキ」は心身をすみやかに浄化する為の本当に素晴らしいツールで、それ以上でも以下でもない。

霊的な世界と交信する人は、その為に自分のまわりに結界をつくることを学ばざるを得ませんし、霊感が弱ったり疲労した時に、それを回復する為のパワースポットを知らねばなりませんし、実際にそこに行かなければなりません。

アカシックレコードにアクセスしたり大天使と交信する人は、その為に必要なあらゆる環境を作らねばならないし、その感覚を維持する為に必要なあらゆる技術を磨かなければなりません。

それで私は霊的な感覚を守り、磨く為にパワーストーンをもっぱら用いることにしました。また、アカシックレコードにつながり大天使と交信する感覚を守り、維持する為に「光の技法」を学びました。そしてこれらを全般的に維持する為にレイキをほぼ完璧に使いこなしていると自分では思っています。私には必要なものすべてが必要だったのです。そして必要なものがひととおり私の手元に集まってきた、というより「与えていただけた」のです。どれかひとつ欠けても、今の私の能力を維持することはできなかったでしょう。

自動車がタイヤ、エンジン、ボディ、電子機器などの集合体であるように、私にもたくさんの技術が必要です。レイキは車でいえばタイヤとエンジンのようなものかもしれません。これがないとなんにもできなかったかもしれません。それぐらい素晴らしく有効なツールです。これからも磨き、使い続けていくでしょう。でも、ナビも必要だし、明るいライトやサンルーフも必要なんです。それらはレイキには含まれていない、けれど私には必要不可欠な技術なんです。

日本人でプライドを保って生きることの難しさ

プライド(誇り)を保てないのならばハラを切ったのが日本の武士道だったようです。
魂はプライドを磨く為に存在しているともいえます。

人生はプライドを感じながら更に高めていくもの。ただ、その高め方がこれまた千差万別。ご飯をつくってあげたり、なにかを指導したり、祈ったり、瞑想したり、ありとあらゆるプライドの磨き方があるものです。皆、一様でなくそれぞれのスタイルをもっていますが、向かうところはひとつ。自分を磨く、ということに尽きるようです。

プライドは磨きがかかればかかるほど、これまた傷つきやすくなります。だんだん生きることが難しくなるのです。他人にプライドを折られることに耐えられないこともあります。その時、魂は撤退を余儀なくされるのです。撤退といっても実際の手段もこれまた千差万別です。関係性を遠ざける程度なら軽いほうで、精神的に閉じこもってしまったり、肉体的に存在を消そうとすることもあります。

時代が時代ならもうこれ以上いかようにもプライドを保ちようがない場合に、そこで人生を閉じる。そういう選択を昔の日本人は実際に行っていたのです。ただそれは一部の階級の人に限られたことで、一般庶民にはそれも容易ではなかった。

日本という国で過去をいきた魂の多くは、けして上位の階級ではなかったのでプライドを保つことは難しかったことでしょう。それを保つ為の選択がある、という考え方を持つこともなかったでしょう。

なんにせよ、私たちがこの地上で前進し続ける為のエンジンは、プライドを磨き続けられるという希望なのです。それが断たれた時に、私たちは前進できなくなってしまいます。その時になにを選択するのか、これはとても難しいことです。この時代、私たちはかなり混沌とした社会性のなかで生かされていて、望まないとしても一人ではないのですから。プライドの高い魂は自分の選択に他人を巻き込むことをよしとしない傾向が強いですから。希望を絶たれるとどうしようもなくなる場合が多いと思います。こういう煮詰まり方をするのは日本人の特性で、他の国家、民族にはあまりみられない傾向です。

人生は日々ま〜るくなる為の修行なのか

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人生という修行のスタイルは、個々の魂においてかなり違います。
多くの人が「人間関係」のなかでもまれ、そして磨かれていきます。

でも、ある人達は人間関係のなかで葛藤したり、苦しんだりということを通して学ぶ方向性を持たずに生まれてきています。こういうタイプの魂は、人と接することでけして悩んだりしないのですね。悩むことはあっても深くひきずることはない。そうはいっても現実にはいろいろな問題が日々浮上するわけですけれども、そこにとらわれていると、ただひたすら虚しくなる…。自分はなにをやっているのだろう、と感じる傾向が強いのです。

一方で、大多数の人は、人間関係のなかでおおいにもまれ、翻弄されながら、カドがとれていくものです。魂はカドがとれていくほど丸みをおびて、しだいに美しく輝きを放つようになります。カドがあってギラギラしているのはまだまだなのかもしれません。

崩壊する縦の関係と、再生する横の関係。

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権威の失墜により、縦社会は崩壊していく一方です。個人の関係性においても、組織の中においても、縦の関係性は根幹から揺さぶられています。容易に変わらない組織もたくさんあるので、揺さぶられながらもやむを得ず体裁を保ちつづけていくよりない、そういう世界では引き続き表面上の権威も保たれていくでしょう。しかし、それははりぼてにしか過ぎず、実のところは抜け殻になっていくことでしょう。

一方で、横の関係は新たな再構築がはじまり、どんどん密になっていき、年月とともに堅固さを増していきます。いかなる権力もそれを無視することはできなくなり、実質的に権力そのものが分散化し、小さな集団でもそれなりの権限をもって機能できるようになっていきます。もっとも責任も同時に発生します。それはプラスに作用し、自浄効果になりますので、組織が腐敗する可能性はとても小さくなります。
新しい時代の横の関係においては、立場、役目、年代、性別の障壁はありません。個々が自発的に自分に最適の役割を担うようになります。誰も支配しませんし、管理しません。それでも全体が有機的に機能できます。それぞれは単細胞生物のように、実にシンプルに行動するだけなのですが、不思議と全体が調和してひとつの生命体であるかのように機能します。魂というのはもとより調和した世界に存在しているので、そういうことは原初から可能なのですが、人類がつくりあげた歪んだ文明と低い精神性が、私達の本来の可能性を歪め、封印してしまっていたのですね。その封印が解かれ、本来人間が持っている、あるがままですべて調和していく能力を発揮できる時代になったのです。

その為には、ひとりひとりが自然体であるがままの自分らしい生き方を一日も早く、実現することが大切です。自分が変われば未来が変わる、ということです。誰かが変えてくれるのを待っていたり、誰かが始めたら自分もはじめようではだめで、自分らしい生き方を見つけ今すぐに始めることが大切です。皆それぞれ持ってうまれた資質も、魂が望む方向性も違うのですから、最初は皆がてんでばらばらになり、右往左往することでしょう。混乱でというより混沌がすべてをうめつくします。しかし、混沌は本来は完璧な秩序でもあります。すべては元々法則性があり、大いなる摂理のもとに動かされているので、私達それぞれが自我を超越し、真理と一体になる真我の境地に至れば自ずとすべて調和していくでしょう。

あまり理屈っぽいことばかり書いていると、頭でっかちになってしまいそうでいけませんね。自分はどうすればいいのだろう、と考えてはいけません(笑)。

あるがまま、自然体の自分で生きる、というのは考えることではなく(少しは考えたほうがいいですが、なにごとも過ぎるのはよくありませんから)、そのまま「生きること」です。生きる、というのは食べることであり、寝ることであり、作ることであり、保つことであり、壊すことであり、楽しむことであり、悲しむことであり、失うことであり、得ることであります。失望することでもあり、希望を得ることでもあります。未来を見失うことでもあり、光を見つけることでもあります。そして、これらは一人ではむずかしいことばかりです。これからの時代は一人でいることが一番、不調和になるかもしれません。

一人でいる時間が長すぎる方は、一日もはやく助けをもとめましょう。また、もしもあなたの周囲に孤立している人がいれば、声をかけてあげてください。そうやって少しずつ、つながりましょう。つながってさえいればいいのです。整然と倫理的につながろうとする必要はありません。私達は元来、誰とでも手をつなぐことができます。つながり続けることが大切なんです。あきらめず、ねばりづよく、です。そうすれば、自然に秩序が生まれます。混沌はやがて美しいハーモニーとなり、すばらしい交響楽が地球から宇宙全体に発信されるようになるでしょう。地球が宇宙の中心になれるかもしれません。

昼下がりの競技場にて「真の強さ」に思いをはせること。

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散歩の途中、陸上競技会をのぞいてみた。高校生ってこんなに若々しいのね、と感じてしまうあたりにいかに自分が長く生きてきたのか、を実感してしまう。しばらくレースをみていたら、スタート前に順位がわかってしまうことに気がついた…。なんでも分かるんでしょう?と勘違いしないでいただきたいのだ。そうではなく、これはオーラをみれば誰でもわかってしまうだろう。それぐらい若々しい彼らの肉体からは、日々の練習の成果や、何度も大会に出場して積み上げてきた実績が、とても素直に反映されていて、わかりやすいのだ。もっともっと鍛えあげて戦績を重ねていくと差もなくなっていくのかもしれない。その日のコンディションに影響される要素もあるだろうけれど、スタート前にほぼ順位は決まっているといってもよさそうだ。

現実社会では、やむを得ず私達は競うことがある。どんなに避けたいと思っていても、時に力と力がぶつかりあい、決着をつけざるを得ないことがある。不可抗力というのは誰にでもありえる。まったく悪意がなくても身を守る為に、正当な力の行使をせざるを得ない。それは本質的には罪ではないので多くの場合は魂のカルマにはなりにくいだろう。が、心はすさむだろうし、精神的には重荷になってしまう。自分も相手も傷つくし、周囲も悲しむかもしれない。結果の重さの程度にもよるが、時に多くの人の人生を奈落の底につきおとすレベルの出来事も起き得る。いつの時代も生きていれば、戦いにまきこまれるリスクはあるものだ。完全な平和を人類はまだ一度も手にしていないのかもしれない。

競いたくない。

その思いがあり、受験の時は小さくなっていた気がする。受験勉強をしていて、なぜか罪悪感がつのる。自分が受かると、誰かが落ちるんだよな、と思うと、なんだか勉強に身が入らない。かといって自分が不合格になっては親にも応援してくれているじいちゃん、ばあちゃんに申し訳ない。そう思うから、仕方なく勉強してきた気がする。大人になってからも、なるべく人と競いたくないから他人と競合しない仕事、ポジションを求めていたように思う。人と違うことをすれば競わなくて済む、そんな思いが根底にあったから自然にクリエイティブな方向へと進んでいく後押しにもなったのだろう。

今も、もちろん誰とも競いたくない。勝ちたくもない。でも負けたら悔しいとは思うけれど(笑)。競わない生き方をしていれば悔しい思いはせずに済むだろう。だといいな。

そんな日曜の昼下がりの円山競技場で真の強さとはなにか、を考えてみました。
真の強さ、とは継続的な努力と、公正な競争を通して勝ち抜いた誇りによって得られるものだと思います。
継続は力なり、といいますが、それによって公正な戦いに挑む基盤が得られるでしょう。
そして、公正な競争(スポーツ、学問、ビジネス、家事、育児、アート、芸能などあらゆる領域)において賞賛を得たものが受け取れる、高潔な誇りを得たものが、美しくしなやかな強さを得るのでしょう。それは現実においてのみならず、魂にとっても誇りとなり柔軟な堅固さとなり、来世にまで受け継がれるものになるでしょう。

人生、できるならば輪廻転生を超越する強さを得るべく、努力を重ね、成果を示し、賞賛を得たいものです。

子供は所詮、子供?

子供は幾つになっても親離れできない面を持っています。実年齢が進んで、社会的にはもうとっくに成人していても尚、親の庇護のもとで暮らしている人もいます。親御さんからすれば、いつ親離れしてくれるのか、自立してくれるのか。自分の目の黒いうちはいいけれど、老いて守ってやれなくなったらこの子はどうなってしまうのか。年を重ねても尚、やきもきし続けている親御さんもいらっしゃいます。親に対する子の内面には、一生かけても成熟しきれない未熟さがあります。それは親子という関係性があるからなので、親は親で頼られてこそ、という自負がある。けれど、あまり頼られすぎても困る。子の側だけの問題ではなく、親子というのは与える側と甘える側の関係性ですから、当事者同士でしかわからない引力が生涯、働き続けるものです。

子が小さいうちは、親としては守るのは当然だし、子も甘えるのが普通。子の実年齢が成人してから先は、現実の関係性はどんどん変化して、はたから見れば自立しているように見えるけれど、心の内側では親子の因果関係はさほど変化していなかったりもします。どれだけあっさりなのか、どっぷりなのかは、すべての親子でまったく違います。まったく親を頼りにしない子もいますし、真逆の場合もあり、本当に様々です。

子供は意外と大人?

子供の気持ちを汲み取るのは、親でも難しいことがあります。子供ってなにを考えているんだろうか? その態度や表情だけでは読み取れない内面性を持っているものです。よくあるのが、親に対する気配り、思いやりを表している場合です。小さな子供でも、親を大切にしたい、孝行したい、そういう意識はしっかり持っているものです。それが強い子は、なんらかの表現をします。ただ、それを上手に表現する術をなにも持たないですし、どうやったら喜んでもらえるのか知っているわけでもありません。だから、結局はひとりよがりな表現で終わってしまうものなのです。親からすれば、なにを言いたいのかな? もしかしたら、なにか不満があるのかな? 勘違いをしてしまうのです。

子供にも、大人とかわらない思いやる気持ちが備わっているというお話でした。