魂の気づき

いろいろな意味で、複数で連れ立っておみえるになる方がある。そういう場合、お引き受けはしないのですが、それでもなぜかそういう方が後を絶たないのです。連れ立っておみえになっても、得るものはないばかりか、貴重な機会、タイミングを失ってしまうことになるおそれがあります。

魂が気づきを得て、精神に変容が起きる。それから現実は確実に変化していくのですが、現実にとらわれてもがいたり苦しんだりしていても、それを乗り越えるには「心」がまず変化を受け入れる準備が整えられているかどうか。そのうえで精神が新しい価値観や視点を持てるかどうかがカギとなるのです。その判断は自分自身にしかできないのですが、そこに第三者が関わることによって大切な判断が不正確なものになってしまう可能性がでてきます。ご親族、ご友人関係。人生には切っても切れないものです。常時必要な絆といっていいでしょう。でも。私たちはまず「個」としての存在をしっかり見つめるべきなのです。それができてこそ、魂は目覚め、気づいていくのです。

他者や社会との関わりのなかで、私たちは対象から「自分の投影」を感じ取ることができます。また、時に自分もまた誰かの為に「投影となる役目」を担っていることがあります。しかし、意識的に誰かの為に「正確でぶれのない鏡の役割」を担うことは難しい。非常に難しい。意図してできるものではありません。君にはスピリチュアルカウンセリングが必要だよ、という言葉を他者に放つのはとても危険な気がするのです。寝言でそれを言ってしまうのはOKかもしれませんがね。

モンスターですら殺せなかった

昨今はネットで殺意があるかのようにつぶやくだけで逮捕されかねない時代になった。しかしバーチャルなゲームの世界では、人であろうといかなる生き物であろうと、武器や魔法をつかって消したり、吹き飛ばしたり、破裂させたり、切りころしたり…。あらゆる方法でもってせん滅させられる。もちろん、そういった文化に賛否あることだろう。悪影響がないのか、といえばなんともいえない。難しい命題だ。

もし自分がゲームを作るとしたら。そこに「敵」がいるとしたら。どうやって消すだろう。そもそも、その消し方を考えた。ミサイルを打って敵機を打ち落とすゲームを作って基本を学んだわけだが、手馴れてくるにつれてゲームの世界観や登場するキャラクターにもこだわるようになっていく。しまいには「はたして撃ち殺す以外に敵を消す方法はないのか」と考えるようになる。

自分が考えたのは「どこか異次元にワープさせればいい」だった。それでシャボン玉をふきかけて敵を包みこんで天高く浮き上がらせて、宇宙の果てまで運んでしまう作戦をとった。表現としては、そこまでリアルに作り上げられなかったが、実験段階では実際にシャボン玉で包んで昇天させてみた(最終的にはプログラムが入りきらず、昇天する動きはカットしてしまった)。子供時代にみたウルトラマンが怪獣を破壊せずに宇宙の果てに送り返したストーリーの影響もあったかもしれない。

そういう斬新な敵の消し方が受けたのかどうかはわからない。が、当時大ヒットしていたマリオと同じぐらい、誰がプレイしても楽しく繰り返し遊べる世界観を実現できた、ということだけは自負がある。

まもなく四半世紀昔の思い出である・・・。あ〜、年はとりたくないよね。

私たちの歩べき道

昨日は近くの会場を借りて、私たちが日頃からヒーラーやカウンセリングの指導をしている生徒さん達が、プロデビューを飾る日でした。まだまだひよっこ達ですが、一生懸命にそれぞれの役割をこなしていました。みんながんばりました。(私たちもがんばりました。一日ずっと立ってたら、さすがに足腰が疲れました。) また、とてもたくさんの方にご来場いただけました。皆さんの暖かい視線を感じられたからこそ、生徒たちも一心に集中できていたのだと思います。皆を代表して心からお礼申し上げます。また、こういう機会をできるだけたくさん持っていきたいと願っています。今はとても手がたりないので年に一度しか開催できませんが、できれば毎月、毎週どこかでなにかイベントがある、というぐらいに、この町でスピリチュアルな世界を定着させていきたいものです。

昨日も、すっかり疲れ切った皆さんに、さて次回の勉強は・・・という話しを振ってみましたが、皆ほとんど心ここにあらずでした。しかたありませんね。でも、私はもっともっと次へいきたい。新しい方向性の講座も幾つか開くつもりです。そのひとつは、いわゆるアセンション関連です。先日、あるセミナーでもアセンション対策のトレーニングをしました。まだきちんと理解していただけていない面もあり、現実的にはどうすればという方がほとんどでしょう。とても大切なテーマですので、しっかり取り組んでいくつもりです。いずれにしても、公募ではなくレイキMLで告知、開催日程を調整していく形になるでしょう。

光のサロンで様々なトレーニング、セミナーを受講するにあたって、実質レイキを「光のサロンで」受講することが必須条件になっています。ご理解のほどよろしくお願いいたします。提携先もこれから増えていくと思いますが、気になる方は担当教師によく相談をしてください。ただ道が開かれないのでなく、自分で前を進まないと道は開かれないものです。
※提携先の生徒さんなら、受講していただける可能性は高いです。

1+1=2でいいのか

ブレスレットを受け取ってくださった方からよくお問い合わせがあります。
石がかけたり、ゴムが切れたり…パワーストーンを持ち歩いていると、いろいろなことがあります。偶然だろうと受け流す方。しばらく放置しておいて、なにかのついでにそういえば、と差し出す方。一方で、すぐにご連絡くださる方…。どうしてなのでしょう?とお尋ねになりたい気持ち、その強さもそれぞれ違います。

石がかけたり、ゴムが切れたりするのにはしっかりと理由があります。パワーストーンは、私たちがもっている想念や運勢に関連する波動に強く共鳴するので、うまく利用するととても素晴らしい人生の鏡になってくれるものです。それを利用して運気をあげることもできます。精神的なコンプレックスを解消することもできる。そして、石になにか起きた時にそれを通じて「魂の成長につながるヒント」を受け取ることもできるのです。

パワーストーンに起きた出来事をなぜだろう、どういう意味があるのだろう、と考える人とそうでない人がいます。考えるにしても、1+1=2と簡単に結論づける人もいるでしょう。でも、本当にそうなのでしょうか。

1+1=は「2」です。でも単なる「2」でなくとも、ルート2の二乗でもよいのですし、割ってでたら嬉しい黄身の数と考えてもよいのです。そこに秘められた意味は無限にあるものです。

自分の人生は、ひとつの数式で簡単に表せるものではないはずです。今、理解できる範囲ですっかり納得しようとすることは無理がありそうです。今わからなくても、いつかわかるようになる。もっと理解が深まるようになる日がくる。そう考えて、未来への課題として受け止めていくことも必要かもしれません。

戦争

ゲーム業界の思い出はつきないが、こんなことがあった。
あるとき「戦争」を題材にしたプロジェクトを担当した。担当者のひとりがプロジェクト開始早々、辞退したいといいだした。よくきけば「自分の信念として、こういう題材に正面から取り組めない」ということだった。いろいろと言いたい気持ちもあったが、やむを得ず担当者を交代させた。ほどなく、その担当者は違う世界へと住処を変えてしまった。住む世界が違ったとでも感じたのだろう。

戦争を題材にしている、といっても小さな画面のなかで稚拙なキャラクターが動いているだけのことだ。たいしたことではない、と普通は考える。だが、人によっては信条の問題であり、ひいては自分の人生のプライドの問題にもなりえるのだろう。

自分は、といえば…いい商品を作ることしか考えていなかったので、題材が平和であろうと戦争であろうと、与えられたチャンスをひたすら活かしていこうとしか思っていなかった。今でも根底に人類愛や平和への祈りがこめられていれば、映像やストーリーそのものが悲惨でも、多少暴力的であっても、程度によっては受け入れるかなと思う。

少し前に「パッション」という映画が封切られて話題になった。メル・ギブソンが描いたキリストの最後というだけあって、非常に血生臭い映像だった。キリストを題材にしていながら、なぜそこまで血がほとばしる映像が必要だったのか定かではない。他にあのような映画が撮れるのは北野武監督ぐらいではないだろうか。そういったことも表現者としての個性といえるだろう。映画は作品であり、ひとつの芸術だ。ゲームも自分にとっては芸術であり、創造の産物だった。自由に思い描き、そこに伝えたいメッセージをこめてつくりあげていく。制作過程は大変だが、創り上げたものを多くのひとに受け止めてもらえた時、そしてその人達から賞賛を得られた時、その達成感はほんとうに素晴らしいものがある。アートを表現する者としてはオーディエンスの賞賛は神の祝辞に等しい。魂が癒され、ひかり輝くようにすら感じる。生きていてよかったとすら思ったものです。

昔、よくプレイしましたよ…と言われるとほんとうな天にのぼるほど嬉しいのだが、あまり顔にださないようにしているつもり、ではある。とにかく年月が経ちましたから…。年をとると照れ隠しがうまくできなくなるのです。

ブレスレットのメンテナンス

人様の人生と向きあわせていただく仕事につけたこと。とても幸せですし、幸運だったと思っています。ご縁のあった方には心から感謝しています。けして十分な時間を割けているとは思っていません。許される限り、と思うのですが現実はそうはいきません。そこが辛く、苦しいところです。もっと時間があれば、と考えない日はありません。

時々、ブレスレットが修理でもどってきます。ひとつひとつの石を調べていると、あるひとつの石が語り始めます。こんなことがあった、あんなことがあった、と。そして、私の手のなかでその石は息絶えるのです。役割を全うし、力を出し尽くして、死んでいくのです。その時、わたしは本当にああ、これでこの人は救われたなぁと感じます。石が代わりに死んでくれたのですから、その人はその分生かされた。

こうやって私が石を通してその方を応援させていただけている。その分、きっとその方は生きられるに違いありません。

生き返ったブレスレットにゴムを通して「輪」をとじる。あたらしい命のドラマをこの石達は見守ってくれることでしょう。

さぁ行っておいで。そして思う存分に戦うがよい。そして・・・私のなかにまた戻っておいで。すべてを受け止めてあげましょう。

ただあるがままの気持ちは

2001年の秋にサロンを開きました。毎日、休むことなく走り続けています。なにもしない休日というのがほとんどとれないので、もうかれこれ3千日以上マラソン状態ですね。やりたくて始めた仕事。なんの保証もないし、誰のサポートもない。一人で地道に作り上げてきました。それまで会社員という守られた立場でしたから、一人で仕事をするということの全てが手探り。今でも面食らうことが多い日々ですが、それでもなんとかやってこれたのは、きてよかったと言ってくださる人達の一言があったからです。ご縁のあった人達には、いつも心から感謝しています。

しかし気づけば自分もずいぶん年をとりました。また、体を休める時間もほとんど取れないので、肉体はいつもどこかしら悲鳴をあげています。他人には体の声をききなさい、と言っておきながら自分の体のことは後手になります。しかし、ここ1〜2年は集中力も以前ほどではなく、ペースを落としています。もともと霊視鑑定というのは精神力を消耗する仕事です。毎日、たくさんの鑑定をしていると疲れもたまりますし、回復させるには深い瞑想をする以外にないので、その時間を工面することも大変です。がんばってもがんばっても、世間の皆さまの悩み事は尽きることがありません。ひたすら人生のお手伝いをさせていただく毎日です。

皆様に支えられてこそ、と思う一方で厳しいお叱りをいただくこともあります。精神的にもきつい仕事ですし、私も生身の人間。許された時間、限られた状況のなかで最善をいつも尽くしています。その極限のなかにあっても、尚それ以上に力を発揮できた、皆さんのお役に立ててきたのではないか。自分ではそう思っているのですが。お小言をいただくと、心はすっかりしぼみます。

それでも、今日も仕事をしなければ。方向を見失い、光を求めてさまよっている方を前にすると、疲れもなにも忘れてひたすらお手伝いに没頭してしまいます。それが私が生きていることを感じられる唯一の瞬間ですから。がんばっている、というよりも、やはり皆さんに私は生かされているのです。そこにはありがとうという気持ち以外にはなにもありません。

ただ、ただ、あるがままの気持ちです。

みなさん、いつもほんとうにありがとう。

来世への宿題

若いころは無数の失敗をしました。
そして反省をする。しばらく自らを封じ込める。とことん落ち込む。
一人になってみる。遠くへ心を置き去りにしてみる。
無限に時間がありましたからね。

ところが、もうそんな時間がない、という非常に切羽詰った年頃になりました。
失敗しても、落ち込んでいる暇がないと思うわけです。
それぐらい人生に、時間に、追いつめられている気がします。
焦りということではなく、若輩ものではあるけれど年月を重ねてきた者の境地かもしれません。
反省が足りなければ天国への帰り道にて。それで不足となればすべて来世への宿題にします。

羽のない天使

天使なんて本当にいるの?なんて人にはこんな話題はきっとつまらない。

羽のない天使さん。
時々、おみかけします。
公園で。書店で。レストランで。交差点で。
遊園地で。地下鉄のなかで。運動会で。
グランドで。病院で。会社で。
さまざまな場所で。

そして、みんな自分が天使だったことを覚えていないみたい。
背中に羽があったことを記憶していないみたい。
一生懸命に、地上の言葉を学び、それを話そうとしている。
それはそれは本当にがんばって生きている。
そして疲れている・・・

そんな天使さん達をはげましたり、勇気づけたり、
支えてあげる人がもっとたくさん必要。

今、たくさんの天使さんがこまっています。
どうか支援の手をかしてくださいね。

難しい

いったんブログに公開してしまうと、それを消去することはできなくなってしまう。
この頃、あまり文章を書かないようにしています。それはどう読んでいただけばいいのか、ということを深く考えなければならなくなってきたからです。
誰にでも気軽に読んでほしい文章を書きたいわけではなく、やはりものごとの真理を伝えていきたいわけですから。でも、人によって受け止め方は違う。その違いを吸収することはこういう形の表現では無理がある気がします。ではどうすればいいのか、という答えをいまだ見出していません。本当にものを書くというのは難しい。ただそのことばかり思っています。

日々、思いつくこと、ひらめくことが無数にあり、その百分の一も言葉にならず、ただ流れては消えていきます。音楽もそうです。美しい旋律が無数にあってもそれはどこかで鳴り響いていて、次の刹那には宇宙のはるか遠くへと消え去っていき二度と探し当てることはできない。まだまだ感謝が足りないのだろうな、と思います。無限に流れ消え行くものがあるとして、人生にただ一度でも、たった一人にでもその光のかけらをつかまえて、手渡すことができればいい。そんな気持ちをどこかに忘れかけているなぁと反省します。