今日の徒然:らしさ

メルマガにも書こうと思っているのですが、「らしさ」というお話。

婚活をしている男女もたくさんいますので、男らしさ、女らしさ、がかなり大事だということについて、です。

女なんだからもっと気配りしなさい、とか、男なんだからどっしり構えてなさい、なんてことをいうと、なんだか口うるさい母親になった気分になります。つまり、私たちの男であること、女であること、つまり性をもつ肉体をもって生かしていただいている、その根っこの部分にあるのは母性愛だと思います。自分が自分らしく、ということの根源には、母親が自分に体の一部として自分をこの世に産み落としてくれたお母さんの思いやりが、この体中にチャージされている。母性は、私たちの体が本能のままに、あるがまま生き延びていくことを強く願う意識です。(もちろん、他にもいろいろな周波数の母性がありますが、ここでは本能的な母性のお話にかぎります)

こと、波長を肉体に限定しますと、母性は私たちの性が、男は男として、女は女として、種を保存していく為に機能することを強く願う意識です。肉体がもっている周波数はたしかに荒いです。であるがゆえに強いです。母強し、という言葉はここからくるものでしょうね。
このあたりメルマガにはもう少し詳しく書いてみたいと思っています。

ゆくゆくは男と女のストーリーもかけたらいいのですが18禁になっちゃうかな。未成年の読者はいないから、いいか…。

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今日の徒然:すべては気付き

今さら、という感もありですが。
「すべては気付き」である、というお話。

日常、本当にどこにでもあるような出来事に遭遇する。困ったなぁ、仕方ないなぁ、そんな気持ちになる。
とりあえずなんとかやり過ごすことができるとしても、心のどこかで「なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう」と思っている。

あるいは、心が重苦しくてすっきりしない。原因は思い当たる。でも、とても些細なことだから、そんなことでいちいち落ち込んでいられない、とかき消そうとしている。

どんなに些細なトラブルにも、どんなに小さな心模様が曇るような状況にも、気付きはある。

どうしてこういう出来事が起こるんだろう。どうしてこういう気持ちになるんだろう。
その体験、感覚をとおして「自分が変化・成長できるきっかけを頂いているのかもしれない」と考えてみてください。

変化・成長の糧にする為に、私たちは時に苦しいこと、辛いことを味わいます。喜びや嬉しい出来事を通して学ぶこともたくさんあります。でも、逃げたいこと、できれば起きてほしくないことを通して、より大きな、そして大切な学びを受け取ることも多いのです。

すべてに気付きはある。

あらゆる出来事は、みえない糸でつながれています。偶然ということはひとつもないのです。

報われない人生

人一倍努力をし、結果もしっかり出してきた。それなのに報われない。徒労感に襲われてしまう。そんな人生もあります。でも、心のなかに「むなしさ」が宿り始めると、もうそれ以上はがんばれなくなるもの。それでも自分をむち打って努力を続けていくと…心がすりきれて、がんばるどころか日常のこともできなくなってしまうかもしれません。

もし、心や体が病におかされてしまったら…そのことで周囲にすごく迷惑をかけてしまったら、それまでの努力も水泡に帰してしまうかもしれません。だからそうなる前に、その「むなしさ」がどこからくるのか。なぜ報われないのか。どう生きていけばいいのか。そのことについて考えてみるべき「時」というものがあるものです。

もしかしたら自分の人生で「今がその時」なのではないか、もうこれ以上、報われない生き方を続けていくことは誰の為にもならないのではないかと感じていらっしゃるのでしたら…あなたの魂はこれからの人生の進路をどこにむけてかじを切りたいと思っているのかを、ひもといてみませんか。
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幸せと不幸の境界。

「しあわせ」な運命と「ふしあわせ」な運命。幸か不幸か。プラスとマイナス、陰と陽。

私たちの日常は、運気でいえばプラスのそれとマイナスがバランスよく存在していて、両方があわせてゼロになる仕組みがある。強運をもっている人というのは、マイナスの運気に打たれ強いのかもしれない。運命に流されやすい人というのはマイナスの運気に打たれたら立ち直れないタイプなのかもしれない。人によって同じ命題に対する受容力は違う。でも、「人の人生」をすべて俯瞰してみれば、いいことも悪いことも、同じだけやってくる。

そんな根源的なルールがあるとして…

ある人は、日々の不幸な出来事をなげき、自分に降ってくる不運を呪うかもしれない。
でも、別なある人は、どんな不運にみまわれても、その向こうに希望を見失うことなく努力し続けられるかもしれない。

おそらく、どちらも同じような運命のレールの上をあるいている。でもそれぞれの心模様は、かたや曇天続き、かたや曇のち晴れでしょう。いったいその違いはどこからくるのか。

この世に生まれ落ちた私たちの運命は自然環境に強く影響をうけます。翻弄されるといっていい。命は有限。限りある寿命は死にむかう。うまれつき、私たちは死ぬ宿命。それがそもそも怖い。だから生き延びるために生きようとする傾向がある。そこからすべての煩悩がうまれる。それはけしてなくならない。だから煩悩から逃れるには「死の怖れ」を克服するしかない。

なぜ私たちは死ぬのが怖いのか。その怖さの理由は千差万別、それぞれ違う。だからそれぞれの怖さの理由を見つける(これ、すなわち内観ということ)ことが肝心です。

胸の痛み

大切な人を思う時、胸が痛くなることがあります。思いやる気持ちが強ければ強いほど、痛みもつよくなるものです。なぜ私たちの胸はいたみを覚えるのでしょうか。。。

様々な理由で、相手を思う気持ちがネガティブに変化することがあります。言葉がスレ違ったのかもしれない。単なる誤解かもしれない。運命を掛け違えてしまったのかもしれない。とにかく、相手との距離が遠くなってしまうかもしれない、もう親しくはできないかもしれない、そんな空気がただようにつれ、次第に胸が痛くなるのです。

胸は自己愛を意味します。そこが痛むのは、自己愛がマイナス、つまり自分を愛せなくなっているということです。普通の言葉でいえば自己嫌悪、という状態。

自分の言葉で相手を傷つけたかもしれない。自分の思いやりが足りなくてお互いの関係を気まずくしてしまったに違いない。そういう考えはすべて自己嫌悪に結びつきます。そのせいで胸が痛くなるのです。

対策は自分を愛せる気持ちを取り戻して、うまく中和することです。楽器が上手な人は一番好きな曲を演奏する。唄が好きな人は得意なレパートリーを披露する。これといって特技がない人は、できるだけ達成感が得られるような作業を開始してください。クッキーを焼いてもいいし、洗面台の鏡をピカピカに磨き上げてもいい。とにかく達成感を得て、自己満足に浸ってください。食べ物だとアボガドが胸の痛みを和らげる効果があります。ヒーリングも効果があります。アロマセラピストに相談してハートの痛みに合う精油をブレンドしたオイルを作ってもらい、それでマッサージをするのもよいです。バラの香りは女性には一般的には痛み止めの作用があるようです。ヒーラーやセラピストは、胸の痛みの対処は得意ですから相談してください。

※心模様からくる胸の痛みは、病院では原因不明と診断されてしまいます。

シャーマンの記憶

久しぶりにメディスンカードをつかった。
この日のクライアントさんは、以前から自然霊との対話についてアドバイスをしてきたのだが、今回がある意味、本格的なコミニュケーションがはじまる最初のきっかけになったようだ。龍神を感じられる方にはたいてい大きな役割がある。ものすごい力を持っている神様なので選ばられた人しかつながることはない。準備が順調にすすむことを祈りたい。
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龍神がそばにいる時は、メディスンカードは磁力をもったかのようだ。カードが動きださんばかりにエネルギーが宿り、私達に非常にパワフルにメッセージを伝えてくる。すっかり忘れていたが感覚は眠っていなかった。せっかく授かった自然神とのコミニュケーション能力をもう少し使えるように磨いていきたいものだ。もっとも、シャーマンとしての力を発揮すべきタイミングは自分にとっても今まであまりなかったように思う。果たしてその時はくるのだろうか。まだその気配はない。

誰にでも開花の可能性はある

ヒーリングとか、カウンセリングとか、チャネリングとか、リーディング等々を行う人を「セラピスト、ヒーラー、カウンセラー、チャネラー」といったりする。なんでもいいけれど、とにかく「見えない世界のこと」とか「スピリチュアルなこと」を仕事にする人は、これまでは普通の人ではない、といわれていた。

だから、僕は普通の人間じゃないのかもしれないなぁと絶望的な気持ちになったことがあって、そんな心持ちでは生きるのが辛い。だから長い間、能力を隠してきた。でも、能力ってあっても使わないと伸びないし、伸ばして鍛えないとプロにはなれないもの。

じゃあ能力とか資質ってどれぐらい必要なのだろうか。

音楽でいえば、ミュージシャンになるとか、作曲家になるとか、音楽の世界で食べていけるようになるってどれぐらい才能が必要なのかということと話は似ている。

かつて才能も経験も学識も備わっている大先生や超有名ミュージシャンの人達となぜか接点があって、とにかくあの人達は凄かった。やはり偉大な人は違うな、と思ったものです。ただ偉大過ぎるとたちうちできないから、もう少し敷居の低い先生のほうがいい。で、自分にとって一番大変だったが、命がけてくらいついた作曲家の先生といえば田中公平先生。ある時なぜか共作で仕事をするハメになってしまった。むこうは百戦錬磨の達人だしプロ中のプロなわけですし業界では最高に有名人だし、実際ものすごいレベルの高い仕事をなさる。一方の自分はといえば経験も浅くて引き出しが少ないから、すぐに煮詰まってしまう。この圧倒的な力量の差の前でひたすら無力感でした。

でも付き合っていくとわかってくるのですが…先生はそれだけ努力してるんですよね。そこはプロの意地ということもあるし、それに見合うだけの下積みもある。そういった部分は一般の人からみえないのですが、同じ土俵にたってみるとみえてくるものが多々ある。だからいっきに同じレベルのことはできるはずもないし、そこで立ち止まってはいけない。思い返せば田中先生と共作してた時は毎日、眠れなくて。文字通り食事も喉を通らない日々。しまいには譜面に追いかけられる悪夢をみました。辛かった…。あちらはバークリー音楽院出身で、かたや自分は作曲法なんて独学ですしプロとしての経験ゼロだったんですから。横綱に小学生(いや小人かな)が挑むようなものでまるで次元が違う。その時に感じた圧倒的なコンプレックス。これが実はいい薬になりました。自分が未熟であることをとことん実感する。後で思うと、その後自分が作曲で伸びていく一番の糧になっていたと思います。だってその数年後に海外レコーディングをやっちゃったわけですから。あくまでサウンドトラック担当という枠ではあったけれど自分の名前でメジャーからCDも幾つかだしました(とっくに廃番ですが)。

そうやって音楽の仕事を一流の人達と肩をならべてこなしていく流れのなかで理解できたことは天才なんていないってことです。生まれ持った奇才、天才の類の人は業界にはほとんどいなかった。三枝成彰先生と仕事をした時に、先生がいった言葉が印象的だった。作曲は技術だって。その時に自分はとてもびっくりしたんです。え?作曲って才能じゃないんですか、と。それまで自分は音楽の才能がないと思い込んでいました。だって音感なかったですし、楽器もろくに弾けないし。音楽の仕事で伸びる要素は自分にはないと決めつけていたのです。三枝先生の言葉をきいてちょっと意識が変わりました。

音楽を作るには、たくさんの人と共同作業をしないといけません。発注する人がいて、受注する人がいる。そこから各担当者に仕事が割り振られる。楽譜を書いただけでは、なんにも形にならないのです。一般的な工程数でいえば作曲家が楽譜を書くのは100分の1ぐらいの比率じゃないでしょうか。残り99%の工程はいろいろな人が関わって完結する。

ヒーリングでもカウンセリングでも、なんでもそうですが天賦の才能なんて必要ありません。そりゃあったほうがいいけれど、たとえあったとしても伸ばす努力がなければ活かされません。しっかり勉強して学んで修得して磨いていけば、多くの人にはその可能性の芽がでます。あとは周囲がその人を活かすでしょう。なんにせよ一人で独学でやっていてはうまくいきません。認めてくれる人も必要、世に出るきっかけを作る人も必要。音楽とか芸術の世界であればオーディション的なものに応募するとかでチャンスもあるかもしれない。ある程度の独学もいい。けれど、実際に開花させようとする際には一人のちからでは無理です。

スピリチュアルな世界もやっぱり同じ。ほとんど(いや全てといっていい)は技術なんです。だから、きちんと学び、研鑽を積んで努力をする。ある程度、技が磨かれたら社会との関わりのなかで実践的に挑んでみる。そこまでの流れを一人でつくりだすことは不可能です。スピリチュアルな世界に限らず、なにか夢を持っていてそれをかなえたいならどこかに入門することです。あるいは、いろいろな経験者と接触をしてさまざまな体験を積むことです。先生は何人いてもいいと思う。でも、ある程度の期間はみっちり修行もすべきだし、世にでるきっかけや流れを作ってくれる人達との関わりを求めていく必要があります。

才能があるとかないとかで、けして悩まないで欲しい。逆にすこしばかり才能があるからなんとかなるとも思わないでほしい。しっかり学びましょう。地に足つけて時間をかけて積み重ねていきましょう。そういう人に社会は期待をするのです。ローマは一日にしてならずです。でも地道に積みさ重ねていけば自分の王国はかならず作れるのです。

だから、なんでも一人で考えこまないで相談するところからはじめましょう。そして学ぶ機会を求めること、磨く努力をすること。そうすれば人から頼られる人になれます。更にがんばればプロにだってなれます。

応援します。あなたにも必ずその機会は与えられますよ。がんばって!

七年期

アストラル体という言葉を最初に使ったのはシュタイナーなのか?定かではないが。彼の説によればそれは14歳から21歳で自律する。

が、どうも今の時代には少し補正が必要なのではないかという気がする。アストラル体の自律によって世界は真実に満ちていることを理解する時期なのだそうだ。オーラのエネルギーバランスが整ってくる時期であることは間違いない。21歳までに大体、安定するというのも実感とマッチする。だがアストラル体の自律が始まるのは14歳以降というのが、どうも実感と一致しないのだ。

これはエドガーケイシーのリーディングを読んでいても、シルバーバーチを読んでいても、とにかくあらゆる古典を読んでいて感じる違和感に通じるかもしれない。

古い知恵は尊いものだが、うのみにするのはどうだろう。自分なりに再検証してみる。そこから導き出される方程式と一致しなければ、どこかに不確定の要素があるのかもしれないし、方程式が未完成なのかもしれない。

0歳から21歳までの成長期間をどのように区分すべきなのか。改めての議論と検証が必要な時代になったのではないか。あるいはなんらかの強いエネルギーが子供の成長の方程式をかき乱しているのだろうか。

今日の徒然:亡き人の思いを読み解く

ご家族を亡くしたご遺族からのご相談もよくあります。もっと生きていて欲しかったという思いは皆さん共通。失った痛みに耐えることもそうですが、残された側が日々どう生きるべきか。死者の思いを問うことは、なかなかむずかしい。

先日、遺品をお持ちになられた方がいらっしゃいました。ひとつひとつに、旅立たれた方のメッセージがこめられていました。

ものにこめられた亡き人の思い。それを解読するのが自分の使命だと思っています。

それにしてもなぜかこういったご相談が以前よりも増えたように思います。

一生のご縁

会社員の6割が今の会社に一生勤めたいと思っている。そんなアンケート調査がある。ところが新卒で就職した人の35%が3年以内に離職してしまうそうだ。一生の勤め先にしたいが、実際にはそううまくはいかない現実がある、ということか。

人が人生につける仕事はそう多くはなく、一つの人もいれば幾つかを転々とする人もいる。たとえ自分で起業するとしても、ずっと同じ看板で通せるとも限らない。人は時代の流れに翻弄されるしかない小さな存在。そんななかで、自分を磨く。川底をころころと転がっていく石ころだ。流され、転がることでまるくなる。まるくなること、そのものが生きる目的のひとつでもある。それでも一生勤めたい、と思う心がある。

一生勤めたいと思うほどの企業との縁。一生添い遂げたいと思う相方との出会い。一生ファンでいたいというアーティストとの出会い。人にとって、一生を捧げるほどのなにか、というのは様々あるけれど、どんなことがあってもその気持ちがブレない、変わらない、永遠のものであるというほど大きな、強いご縁というのは、そう多くはないと思う。稀にそういうご縁を得られた人生というのは、それだけで産まれてきたかいがあったといえる。一生を超えて、永遠の宝になる。

あえていえば一生大事にしたいほどのご縁であるかどうかは、いつまでも心にのこる大切な宝であるかどうかが重要なのであって、本当に一生続けばよいというものでもない。たった3年でも、心に温かいものが残ればとてもよいご縁だったと思う。要は、そこでどれほど魂が充電できたか。それに尽きる。桃太郎のきびだんごのようなものかな。大切に思われることで、人は強く、打たれ強くなる。そして目的にむかって立ち上がっていける。本当に良いご縁というのは、ふらふらと流されていた自分を理由もなく拾い上げ、育ててくれ、一生生きていけるだけの力を与えてくれる、そういうご縁だろう。