苦しい時はどうぞ遠慮なく・・・

我慢強い人、意思の強い人、責任感の強い人、自立心の強い人、思いやりの豊かな人、向上心のある人、優しい人、相手を傷つけたくない人、みんなの為によかれと思う人、親の気持ちを汲む人、みんなが苦しいのだからと思う人、神様に嫌われたくない人・・・

それでいて、腰が痛い、背中が重い、肩が凝る、眠れない、おいしく食べられない、楽しくない、希望がもてない、なんの為に生きているのかわからない。そんなふうに感じているとすれば、心も身体も疲れているのです。

我慢しないでください。あなたのガイド達はとても心配をしていて「無理しないで」と言っています。

心のどこかで、とても苦しいと思ったらどうぞ遠慮なく相談してください。一緒に問題に取り組んでいきましょう。

日々の「問題」やたくさんの「課題」は、解決すべきものというよりは、取り組み方を工夫すべきものだと思います。なんとかするのだ!という考え方は疲れるから、あまり気負わないでほしいです。

2012年最初の合宿

今回の合宿は例年と違うペースでの開催のタイミングになってしまいました。昨年は大きな変動の年でありましたからやむを得ません。暦の上でもなかなか日取りが合わず苦心しました。
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1月のニドムの森はとても静かでした。丁度、旧暦の大晦日と新年を森のなかでひっそりと迎えることになりました。偶然ではなかったのでしょう。この時期、森の静けさにとっぷりと浸ってみるのも、とてもいいものです。

こんな静かな場所に二泊もしていると、いったい自分がどこにいるのかわからなくなります。現実感がなくなっていくんですね。
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でも、よくよく考えてみれば自然のなかにいるほうが本来は現実の全てであって、そこで非現実感を感じるということは、いったいぜんたい私達は日常をどこでなにをしているのだろう? そんな気がしてしまいます。合宿から日常に戻ると、いつも思うのは「また戻ってきてしまった」という感覚。それは正直なところ、あまり嬉しい感じとは言い難いわけです。現実は誰にとっても大変ですから。

日常とは違う世界に行って、戻ってくる感覚。これは魂感覚をゆさぶる、とてもいい刺激になるんです。だって、この世とあの世は別次元で、そして地上はとても大変な世界だからです。どんな魂だって生まれ落ちた時は「大変だな、これから始まるんだな」と武者震いして産まれてきます。そして、天に召される時は「やっと元の世界にかえれるんだな」と完全な安らぎのなかに戻っていきます。

私達が産まれたばかりの赤ちゃんの可愛い安らかな寝顔をみて、なぜか安心するのは天上界の静寂や調和をふと思い出せるからなのかもしれません。

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今回の合宿では、魂の目覚めというテーマですごくたくさんのワークをこなしました。どれも難しいワークではありませんでした。でも、一生の間でそうそう体験することのない内容ばかり。とても濃い内容になりました。素晴らしいセミナーになったと思います。参加してくださった人たちにとっても、一生の良い思い出になることでしょう。「魂の目覚め」というテーマも、時を経るごとに実感していただけるだろうなと思っています。

心を読み解く

いったいいつ頃から、自分はこんなに人の心を読み解く事に興味を持つようになったのだろうか。ふとそんな記憶をたどってみた。

大学に籍をおいた3年間は人生の暗黒時代で未来への展望がなにもなかった。そんな折り、図書室で心理学の本をなにげなく手にとって読んでみたのだが、そのなかに夢をとおして抑圧された意識をひもといていくという事例が載っていて、非常に興味をひかれたことを今でも鮮明に覚えている。

他も多くの事例が本には載っていた。自分が興味をひかれたのは「いったいどうすれば夢に隠された憎しみを読み解けるのだろうか?」という点だった。結局のところ自分が知りたい核心については、どこにも書かれていなかった。その後、大学に見切りをつけ、ついでに実家も飛び出して札幌に一人移住した。拾ってもらった会社で必死に働きながら衝撃的な体験をする。もう誰も彼の事は覚えていないかもしれないが、数ヶ月の間一緒に働いたT君だ。本州出身の彼は、気持ちの優しい青年ですぐに打ち解けた。引越しを手伝ってくれたり、一緒にご飯を食べにいったり、締め切り前はよく一緒に徹夜もした。だがほどなく彼は統合失調症らしいことが判明し、通院して投薬を受けてがんばったがやむをえず退職していった。最初に内科を受診し、脳波検査を受け、安定剤を飲むようになり、やがて症状が悪化していく様子を、一番間近で向き合ったのは自分だった。思えばあの体験が人の心の闇に意識を向ける、大きなきっかけになったと思う。

一番、症状がひどい時のT君には別の名前があった。まったく普段とは別のY君という人格に入れ替わってしまう。その後は深い昏睡状態になる。目覚めるといつものT君に戻っているのだが、その時に彼はもう一人の自分のことをまったく覚えていなかった。もう一人の人格であるY君とは、彼の部屋で何度か話したし、ふらふらとさまよっている場面を見つけて追いかけて見失ったりした。いったん、行方がわからなくなると何日も部屋に帰らなかったが、数日すると消耗しきって暗い部屋のなかでうずくまってひたすら眠っていた。

隠れた人格のY君は、ひたすらなにかに怯え逃げまわっているようにみえた。親身になってささえたいと思った。もっと話して欲しいと思ったが、Y君はけして心を開いてはくれなかった。簡単な会話に数回、応じてくれただけ。とても虚しく、そして残念だった。

症状が悪化して勤め続けることは無理ということでT君は去っていった。

心が完全に分裂して、二人の人格が同居することがある。それぞれは自分の名前をもっていて、別々のことを考えたり、悩んだりしていた。ただ、現実を生きている友人だったT君とは違い、過去の体験のなにかに怯えてつづけているY君とは知り合いにもなれなかった。

人は表の顔を裏の顔を持っている。その後も、たくさんの本を読んだがY君がいったい誰だったのか、どうして彼らは分離してひとつの心を共有することになったのか答えを見つけることはできなかった。幼少期になにかあったのかもしれない。大きなトラウマを抱えていたのかもしれない。繊細でナイーブな気質を持っていた彼が、誰かを傷つけてしまった罪の意識を受け止めきれず抑圧した結果なのかもしれない。

もしもう一度会えたら、なにか解決する為の方法論の一つも教えてやりたいと当時の自分は心のどこかで願った。30年近い歳月を経た今の自分ならT君の力になれると思う。そしてY君とも対話ができると思う。それだけの能力を磨き、経験を積み、技術も得た。神様はその機会を与えてくれるだろうか。

身の回りのあらゆることに気づきはある。

最近、ラジオ方法を聴くことが少し増えています(インターネットでもラジオが聴けるようになりましたからね)。

先日、ある番組でリスナーから寄せられる夢の話題に耳をかたむけていたら、自分もみたことのある夢とまったく同じ内容の夢をみている人がいたんです。夢ってなかなか面白いものです。

夢を読み解けるようにしておくと、自己分析にとても役立ちます。自分でも印象深い夢は、手帳に書き留めておいてあとで振り返ってみたりします。

夢もそうですが、日常の生活のなかで「ふと気になる出来事」というのは、ほとんど全てといっていい。そこになにか「気づきのサイン」が隠されているものです。

・同じような出来事があいつぐ
・印象深い夢
・特定のキーワード、数字が心に残る
・古い友人から不意に連絡がある、路上でばったり遭遇する
・身体の些細なトラブル、不調(特に小さな痛み、不快感)
・近しい人達とのトラブル、対立、口論(心に深く残る相手の態度、言動)
・内なる秘めた感情が蘇る(無意味なホームシック、人恋しさ)
・現実逃避の衝動、突然の大きな虚無感

仕事、健康、人間関係に目に見える大きな課題がなくとも、これらの項目の小さな「気になるできごと」の積み重ねがたくさんあれば、ひとつひとつの意味をしっかり理解していくことで人生の断捨離が可能になってきます。

ひとまず順調な人生であっても、それでも無駄というのはなくならないものです。別な言い方をすれば、とてもスリムに無駄なく生きている人でも、まだまだ人生を有意義なものにすることは必ず可能だということです。

人生は一度きり。過去にも来世にも、同じ土地、同じ家族、同じ環境、今と同じ人格、個性を持って生まれ変わることはありません。宇宙の歴史のなかでたった一度きりで唯一の人生が「いま」なのです。目の前の課題がある方は、できるだけスムーズに確実な取り組みをしたいもの。小さな課題がたくさんという方は、無駄がないかどうかを確認しながらより大きな達成感を得たいですね。

怖れる生き方

「怖れを手放そう」という表現がある。怖れも煩悩の一部だ。簡単に手放せないところが人間らしさでもある。だから難しいのだ。難しいことをがんばろう、なんとかやってみよう、というのはおしつけがましくて、あまり大きな声で言われたくはないかもしれない。

人生において「怖れ」るが故に、失敗したり、掛け違えたり、誤解したりされたり、対立したりすることは、本当によくあることだ。ありすぎて困るぐらいたくさんある。もし、人間が「怖れ知らず」な存在だったなら、この世の中はどうなっていたんだろう。天下泰平だろうか…。いや、逆に味気なく無味乾燥な世の中になっていたかもしれない。穏やかであること、安らげる世界であることは誰にとっても普遍の願いに違いない。だが、私たちの内部には「怖れ」という忌まわしき敵が潜んでいる。

怖れといかに向き合い、超越し、その向こうにある「自分らしい生き方」にたどり着くか。そこに人生の知恵の全てが網羅されているといってもいいのではないか。怖れを通して私たちは日々、ほんとうに多くを学ばされている。

とどのつまり「怖れる」ことも、生まれてきた時点で宿命といえるのではないだろうか。であるなら、あるがまま内なる「怖れ」と対峙し、人生の最後の日に勝敗がいかにでるのか甘受しようではないか。

悔いない生き方

今日は「悔いない生き方」について考えてみよう。

「悔いる」とはどういうことか。古今東西で微妙に定義が変わってくる。西洋では「悔い改める」という概念があるが、これはあきらかに宗教的なニュアンスが濃い。そして西洋的な個人主義社会では「悔いない生き方」の定義が、個人の「意思」に重点が置かれる。つまり「自分に恥ずかしくない生き方」であるかどうかに非常に重きがおかれているようだ。個人の尊厳を大切にする社会だから当然だろう。

日本人である私たちにとっての「悔いない生き方」は、いったいどのようなものなのか。そこにはたしかに「悔い改めるべきことがあれば、改めましょう」という真摯な姿勢も感じられる。だが、それは私たちがもっている精神的な「伝統」であったり「空気」のようなものに対してあって、けして神に対してという概念ではなさそうだ。

よく西洋社会からいわれるように日本人はなかなか、よくわからない精神構造を持っているようだ。いったいわたしたちにとっての「悔いない」とはどういう生き方なんだろうか。ひとりひとりが自分の現実に照らし合わせて「自分はいったいどう生きれば悔い無く生きられるのだろうか」ということを考えはじめると、途端に迷路にはまってしまう。

わたしたちが持っている「悔いない」の定義には、あきらかに「自分自身が悔いない」というニュアンスが多分に含まれている。人に定義づけられるような生き方よりも、自分が定めた自分自身のマニフェストに従って「悔い無く生きたい」という願望を多くの人が持っているだろう。すると「自らの人生のマニフェスト」が明らかになることで、悔いない生き方はリアルに浮上してくる。悔いない生き方はなにかを追求するのではなく、自らの生きる指針(マニフェスト)を明らかにすればよいのだ。

自分の人生の最高責任者としての自分がどう生きたいのか。自らに問うことからはじめてみよう。

魂のインタビュー

カウンセリングにみえる方のなかには(特に初めていらっしゃる方)人生の大問題と向きあっている方もたくさんいます。完全に八方塞がり、どん底、誰も頼れない、運も尽きた。そこまで追い込まれて初めて真剣に誰かの力を借りて、この窮状から這い上がりたい、逃れたい、楽になりたい、復活したい、そう考える時人は素晴らしいチャンスに遭遇しているように思うのです。

なぜか人は楽に暮らしている時は悩みません。人生の命題があっても、そこから目を逸らしてしまいます。向き合うべきだと、どこかでわかっていても、なんだか面倒になるのです。そんなことしなくても、十分に楽しくて幸せ。だったらそれでいいじゃないか。

そう考えてしまうのが人間の特質でもあり弱点でもあるようです。魂は「楽をする為ばかりに生まれてくるのではない」ので、煩悩おおき人生をまっすぐに生きようとします。その葛藤のなかで壁にぶつかる。その時に「自分が変われる」ことを知っているようなのです。こころのなかでは(魂は知っていても、こちとらそんなことは知ったこっちゃない)と考えていても、魂はわかっているのだから、どうしようもない…。葛藤のどん底で、魂は変化の波にのれるチャンスをつかもうとします。

変わるべき方向にシフトできれば(流れをつかめれば)同じ葛藤を二度味わう必要はなくなります。魂は「次の更なるステップアップ」を願うので、どんどん次に進もうとします。流れにのり、変化を確実なものにして、より更なる高みを目指します。そこでたくさん結果をだそうとする人もいれば、より内容を充実させようとする人もいます。虎視眈々と「その時期」がくるのを待つ人もいます。いずれにしても「煩悩」の渦からは解き放たれて、明確なビジョンにむかって進んでいくサイクルがやってきます。

壁にぶつかる→内面的な変化をひきよせる→魂が望んだ方向にシフトアップする→新しい流れにのる

結局、魂が人間になってなにをしようとしているのかというと、こういう方程式は存在するのだと思います。

どういう変化を望んでいるのか。どのタイミングで新しい流れをつかもうとしているのか。どこまで結果をひきよせようとしているのか。魂へのインタビューができれば、いろいろなことがみえてくると思います。

さまざまな愛の形

シャーリーマクレーンの「アウト・オン・ア・リム」が翻訳出版されて25年になる。この25年の間に、世界は世紀末を迎え、乗り越えた。何事もなく過ぎるかと期待されたが残念ながら世界でも、そして日本でも振り返れば社会問題や環境問題が肥大化していく一方だ。人類は滅びず、核戦争も起きなかった。しかしオウムのサリン事件は日本や世界をゆるがし、9.11のテロ事件があり、そして日本は大災害によって永遠に歴史に残るだろう悲劇を味わっている。

スピリチュアルな定義からすれば、「悪いできごとはすべて私たちの想念がつくりだしている」ことになっている。でも本当にそうなのだろうか。では逆に「未来を信じ続ける」ことができれば、科学は環境やエネルギーの問題を解決し、社会は対立することもなく、分かち合い与え合える世界が確立できうるのだろうか。大地震に備えることができるのだろうか。誰も苦しむことのない世界を創り出しうるのだろうか。

それもこれもプレアデスの知恵をもってすれば可能だ・・・スピリチュアルな世界では、そういう定義付けになってしまう。

しかしこんな時代のこんな空気のなかで、これほど荒唐無稽な話しもない。だが25年前に、かの大女優は自らの体験を公にしたのだった。そして、そのなかにはなんとプレアデス人が地球にやってきているという話しも出てくる。神秘体験をした、という話しなら話半分でフィクションと思って読むこともできる。が、プレアデス星からやってきた宇宙人が地球で人の姿をして生きている…という話しはどうなのか。その時点で、「実話である」という設定からしてフィクションだろうと切り捨てたり、そもそもとんでも本として封印したり、興味津々で飛びついたり、受け止め方は完全否定か、完全許容のどちらかではなかったか。結局、25年たった今でも本当のところ信じる?信じない?でいえば、二者択一をせまればほとんどの人は後者だろう。というより、それでいいし、そうでないとまずいかなと思う。こんな時代に「宇宙人の話し」はもってのほかである。それが真実とかどうとかいう以前の問題だ。

現実はいつも、人類を翻弄し、苦しめている。数千年前から世界は分離し、対立し、傷つけあってきた。人種差別はなくならず、貧富の格差もひどい。すべての人が豊かになれるかどうか、誰にも未来はみえない。ひどい環境で生きるか死ぬかという暮らしをしている人のほうが、日本のような先進国で暮らしている人よりもはるかに多いのが現実だ。

一方で日本に生きていても、精神的に追い詰められ、生きる目標を見失っている人がとても増えている。世界全体をみても、日本だけに枠を仕切っても、自分の見える周囲だけ見つめても、不平等や不均衡、不安や怖れはおびただしく、それらすべてを「自分たちの想念がひきよせているのだ」と訴えるには、あまりにもはばかられる。

でも25年前は、おそらくどこにも誰にも、こんなことを考えている人はいなかったと思う。本当に一握りの思想家や哲学者や宗教家が、小さなコミニュティや著作や芸術作品のなかで訴えていたに過ぎなかっただろう。だから一般庶民が手にとれる普通の本として「魂の普遍的な真実」があきらかになったのは、キリストや親鸞以来ではないかと思われるほど稀有なことだった。

(そういえば「アウト・オン・ア・リム」が出版される数年前に、ジョン・レノンが亡くなった。その年は自分にとっては喪失感が大きな年だった。その数ヶ月前に敬愛するピアニスト、ビル・エバンスが他界した。日本ツアーも予定されていて、是非一度ライブを見たいと思っていただけに、非常に残念な思いだった。)

映画や音楽を通して、表現者(俳優やアーティスト)が訴えているものを、多くの人が見る。そして、その人の人生を通して少なからず共感し、時に追体験をする。世界中の人がそうだと思うし、日本人も同様だろう。スピリチュアルな意識変革は誰にでも起きうるし、シャーリーマクレーンでなくても、あんな本が書けるぐらいの人生を味わう可能性がすべての人にある。すべての人がUFOを目撃するだけでなく、宇宙人に遭遇してしまう可能性があるのだろう。

だが。忘れてはいけないことは、私たちの人生は「スピリチュアルに目覚める為にある」のでも「宇宙人に遭遇する為」にあるのでもない。エネルギー問題で悩む為でもなく、災害で苦しむ為でもない。それぞれが、自らの人生を通して「魂を磨き、愛のエネルギーに満たされていく」為に、すべての人の生きるチャンスを神様から与えていただいているのだ。

日本は関東大震災の直後、レイキの初代である臼井先生が広げた手当療法がまたたく間に日本中に普及し、戦前は日本全土に数十万人が実践するまでになった。その多くはレイキと呼ばれずに、単に「手当療法」として普及していた(ほとんどの人がレイキがルーツであると知らずに実践していたようだ)。ただ、現在のレイキと同様、その根源的なエネルギーをシステマティックに「師から生徒へ」伝達するテクニックは、ほんの一部の弟子にしか受け継がれなかった。それは戦前(まさに開戦直前)にハワイに持ち出された。そして数十年後、あるドイツ人の手によって札幌に里帰りをし、ここから日本中に再び広がった。聖火リレーのように、レイキという火は消えることなく今日まで受け継がれている。

本を読まなくても、衝撃的なスピリチュアル体験をしなくても、レイキを実践するだけで「学ぶべきものは学べる」と思う。まして宇宙人に遭遇する必要などない。

だからといってレイキを学べば、魂が学ぶべきことをすべて学べると言っているのではない。いかに生きるかを決めるは本人の自由意思の「内なる変化の現れ」でなければならない。そうでなければ、自分の糧にできず、愛を知ることにはならない。愛を学ぶには、まず自分の人生に「愛が満ちている」ことを知らねばならず、それを味わい、糧にすることによってはじめて私たちの魂は「愛を学ぶ」ことがかなう。

神様は必要であれば神の子を地上につかわす。弘法大師のような偉大なる天才をもつかわす。すべての人に救いがあると親鸞を通して教えてくださる。信じようと信じまいと、手をあてれば楽になれるという不思議な技法をもたらしてもくださる。宇宙人は神の使いではなく、この宇宙に在るすべての意識は神の愛を学ぶ為に存在しているのだと思う。宇宙人ですらきっと発展途上人なのだ。

霊能者の取り扱い説明書<使命について>

前回、このタイトルで書いた記事を参考にしてくださった方がいたので続きを書いておきますね。

前回は「幸せ」について、でしたので今日は「使命」についてです。

◎質問>自分の魂が果たすべき役割はあるのでしょうか?

このご質問はとてもむずかしいんです。このまま霊界にとりつぐと「意味不明」で返されてしまうのです。どうも地上の私たちと霊界ではものごとの概念が違うのです。価値観も倫理観も根底から違います。ですからこのご質問の場合、どういう意図でご質問なさっているのか確認し、魂としてはどうあるべきなのか、どういう生き方がベストなのかにご質問の意味を置き換えて霊界に問いかけると、守護霊団からはにっこり優しいアドバイスが返ってきます。
まず、原則として霊界からみると私たちの魂には「ノルマ」とか「義務」というものがないのです。ですから、「なにをすべきなのか?」と考えるのは「内にひきこもった意識状態」であるとも言え、なにかにとらわれている状態かもしれません。つまり「焦り」や「切迫感」からくる問いかけである可能性もあります。ひょっとすると無意識に「罪悪感」を打ち消そうとしているのかもしれません。

霊能者も、単なる霊界との取次ぎだけでは役不足で、カウンセラーとしての資質が求められる場合が多いなと感じるのはこういう時なんです。つまりご依頼人の問いかけを守護霊さんに問う前に、無意識になにかを抑圧していたり、強いストレスを感じているような場合には、まずその部分を解放してあげなければいけません。そこのところを見抜いて上手にセッションのテーマを振り替えていく為に霊感はあまり役にたたなくて、臨床的な経験値が求められると思います。

ですから、このようなご質問をいただいた場合には一概には言えませんがひとまず、その使命感のようなものがどういった感覚なのかを確認しながら背後に抑圧された意識がないかどうかを確かめるようにしています。なぜ気負ったり、がんばらなければいけない、と考えてしまうのか理由がわかると気持ちが楽になるものです。

でも、本当に強い役割意識を魂が抱えている場合はやはりあるのです。

◎質問>自分が今生で達成したい目標はなんなのか?

家庭をもつこと、仕事で成功すること、たくさん遊ぶこと、社会貢献すること、芸術家になること、コミュニティを作ること、子供達を助けること、人の運勢を鑑定すること・・・キリがないのでこれぐらいにしておきますが、要するに意外とシンプルな目標を掲げているものです。時にそれが2つ、できれば3つ(あるいはもっと、という人もいるかもしれません)。加えて、その魂にとっての「達成したい規模」というものもあります。たとえば人を助けたい、という目標を持っている人もかなり多いのですが10人の場合もあれば千人ぐらいという人もいたり、もっと多い人もいます。直接的に、だったり間接的に。事業を通して、あるいはボランティアで等、形態も様々です。医療を通して社会貢献をすること、などとかなり具体的で明確なテーマを持っている魂もたくさんいます。これらはすべてその人が生まれてきた時に魂はしっかりと心の奥底に刻みつけてくるので、前世を霊視しなくても、守護霊さんと交流できなくても、鑑定することは可能です。ポイントは生まれてきた時の状態(エネルギー)を見極めることなんです。これはなかなか大変なので、やはり霊感のある人は守護霊さんに教えてもらったほうが楽です。あわせて前世のいきさつを確かめて、魂の歴史的な背景を確かめておくと、なるほどと納得度が深まります。ですから、私の場合は今生の目的は守護霊さんに教えてもらい、そのいきさつについては前世の歴史をリーディングして紐解き、確かめるようにしています。
自分でも、すべての情報をいっきに受け取るわけではないので、前世の情報が少しずつ紐解かれていって全貌がみえてきた時に心のなかでは「なるほどなー」と感心しながらお伝えしていたりします。時にあまりにも珍しい過去をもった方もいらして、受け取った情報があまりにも突拍子もない内容だと、本当なのだろうか、こんなことを話していいのだろうか、と一瞬戸惑うこともあります。でも、いったん受け取ってしまったら伝えないわけにはいかないのです。

自分はいったいなにをしたいのか、どう生きればいいのか。
こういう悩みを抱え、真剣に人生と向きあっている方はとても多いと思います。まじめなタイプの人はとことん悩んでしまうのではないでしょうか。でも、考えてもなかなかわからない事ですし、人生を生きて、社会に揉まれ、様々なトラブルと直面しながら乗り越えていくなかで少しずつ自分が納得できる方向性がみえてきます。ただ立ち止まって悩んでいても、答えは簡単には得られないでしょう。

しかしながら、時にご相談者に本当に必要なことは「ひとときの休息」であることも多いです。真理にアプローチするには何年もかかる場合もあります。自分の人生の真実を知りたいとしても、こういった情報を受け取れるタイミングというのがあります。良い時期でない時に、無理をしたりがんばったりして、まず知るべきことを知っておこうとして予約をいれようとしても、タイミングがあわなかったり、あるいは調子を崩したりなんかしてうまくいきません。そういう時は守護霊さんが「今は無理しなさんな」と伝えてきているんでしょう。

自分の使命や目的を知りたい、と思う時はまず自分に問うことです。何度も問いかけてください。それを何ヶ月か繰り返してみてください。答えがいつもゆらがず、同じであれば大丈夫だと思います。「やはり、その答えを知りたい」と心の底から願うのなら、今がその時です。

私たちはいかに生きるべきか

私たちはなんのために生きているのだろうか。真実はさほどむずかしくない。ものごとの本質は結局はとてもシンプルだったりする。

「愛を学ぶため」に魂ははるばる遠くから地上に生まれ変わってやってくる。そして死んで、また生まれてくる。嫌になっても、もういいと思っても、やっぱり懲りずに生まれ変わってくる。もういいや、と思っても(そんなふうに時間をぼんやり無駄にしている人ほど)ほぼ間違いなく生まれ変わってくる。そう簡単に転生のサイクルから解脱できるものではない。そもそも解脱したいなんて思っている時点でちょっと「目的」を見失っている可能性すらあるから要注意。

もう一度。

「愛を学ぶため」に私たちは生まれ変わってくる。

つまり、「生きる」ということは「愛を学ぶ為の体験学習」ともいえる。学習だから、楽じゃない。楽する為の人生じゃない。

よく「なんでこんなに辛いんだ、苦しいことばかりなんだ」となげく人がいる。なげき続けていてもなかなか人生は好転しない。

でも、あまりにも苦しいことがあると、ちょっとこれはないだろうと思うことがある。身近な人を亡くしたり、あまりにも生きることの代償が大きすぎる時はさすがに「こんなひどいこと」を通して、いったいぜんたいどうやって愛を学べばいいのか、と思うことはたしかにある。

それでもやはり「愛を学ぶほかに生きる道はない」と思う。

辛いことがあった時、どうしようもないことがあった時、そんな時こそ私たちは絶好のチャンスをむかえている。そこで「なにを学べばいいのだろう?」と考え、試行錯誤する人とそうでない人では来世がかわる。

私たちの人生の目標は今生で楽をすることではない。だからといって日々、楽しみを糧に生きることを放棄すべきでないし、人並みにエンジョイしようとすることは罪ではない。でもけして目指すべき本質ではないのはたしかだ。

学ぶ為には気力も体力も必要だからね。しっかり充電しないと学びようもないし、吸収もできない。魂が修行をするには「それなりの環境」が整っていることが、とても大事な要素だ。だから現実の日常が豊かであることも「よい学習」には必要な条件になる。

「厳しい現実的な問題」と向きあう時、そこに「愛を学ぶべき課題」がストレートに隠されていることもあれば、ひとまず現状の体力づくりの為に「充電に入るべき時期」であるという隠されたサインである場合もある。もし前者なら、善は急げだ。もし後者ならじっくり長期戦で体力回復に務めるべしだ。見極めができれば人生をより有意義に生きられる。

(※光のサロンでは、魂がいかに愛をまなぶべきか、という命題を前提に「現実の諸問題との向き合い方」を鑑定できるので、些細なトラブルでもどんどん利用して欲しいと思います。動くべきか、休むべきか。その判断ができるだけでも運勢は自分により有利に変化しやすくなります。)