さまざまな愛の形

シャーリーマクレーンの「アウト・オン・ア・リム」が翻訳出版されて25年になる。この25年の間に、世界は世紀末を迎え、乗り越えた。何事もなく過ぎるかと期待されたが残念ながら世界でも、そして日本でも振り返れば社会問題や環境問題が肥大化していく一方だ。人類は滅びず、核戦争も起きなかった。しかしオウムのサリン事件は日本や世界をゆるがし、9.11のテロ事件があり、そして日本は大災害によって永遠に歴史に残るだろう悲劇を味わっている。

スピリチュアルな定義からすれば、「悪いできごとはすべて私たちの想念がつくりだしている」ことになっている。でも本当にそうなのだろうか。では逆に「未来を信じ続ける」ことができれば、科学は環境やエネルギーの問題を解決し、社会は対立することもなく、分かち合い与え合える世界が確立できうるのだろうか。大地震に備えることができるのだろうか。誰も苦しむことのない世界を創り出しうるのだろうか。

それもこれもプレアデスの知恵をもってすれば可能だ・・・スピリチュアルな世界では、そういう定義付けになってしまう。

しかしこんな時代のこんな空気のなかで、これほど荒唐無稽な話しもない。だが25年前に、かの大女優は自らの体験を公にしたのだった。そして、そのなかにはなんとプレアデス人が地球にやってきているという話しも出てくる。神秘体験をした、という話しなら話半分でフィクションと思って読むこともできる。が、プレアデス星からやってきた宇宙人が地球で人の姿をして生きている…という話しはどうなのか。その時点で、「実話である」という設定からしてフィクションだろうと切り捨てたり、そもそもとんでも本として封印したり、興味津々で飛びついたり、受け止め方は完全否定か、完全許容のどちらかではなかったか。結局、25年たった今でも本当のところ信じる?信じない?でいえば、二者択一をせまればほとんどの人は後者だろう。というより、それでいいし、そうでないとまずいかなと思う。こんな時代に「宇宙人の話し」はもってのほかである。それが真実とかどうとかいう以前の問題だ。

現実はいつも、人類を翻弄し、苦しめている。数千年前から世界は分離し、対立し、傷つけあってきた。人種差別はなくならず、貧富の格差もひどい。すべての人が豊かになれるかどうか、誰にも未来はみえない。ひどい環境で生きるか死ぬかという暮らしをしている人のほうが、日本のような先進国で暮らしている人よりもはるかに多いのが現実だ。

一方で日本に生きていても、精神的に追い詰められ、生きる目標を見失っている人がとても増えている。世界全体をみても、日本だけに枠を仕切っても、自分の見える周囲だけ見つめても、不平等や不均衡、不安や怖れはおびただしく、それらすべてを「自分たちの想念がひきよせているのだ」と訴えるには、あまりにもはばかられる。

でも25年前は、おそらくどこにも誰にも、こんなことを考えている人はいなかったと思う。本当に一握りの思想家や哲学者や宗教家が、小さなコミニュティや著作や芸術作品のなかで訴えていたに過ぎなかっただろう。だから一般庶民が手にとれる普通の本として「魂の普遍的な真実」があきらかになったのは、キリストや親鸞以来ではないかと思われるほど稀有なことだった。

(そういえば「アウト・オン・ア・リム」が出版される数年前に、ジョン・レノンが亡くなった。その年は自分にとっては喪失感が大きな年だった。その数ヶ月前に敬愛するピアニスト、ビル・エバンスが他界した。日本ツアーも予定されていて、是非一度ライブを見たいと思っていただけに、非常に残念な思いだった。)

映画や音楽を通して、表現者(俳優やアーティスト)が訴えているものを、多くの人が見る。そして、その人の人生を通して少なからず共感し、時に追体験をする。世界中の人がそうだと思うし、日本人も同様だろう。スピリチュアルな意識変革は誰にでも起きうるし、シャーリーマクレーンでなくても、あんな本が書けるぐらいの人生を味わう可能性がすべての人にある。すべての人がUFOを目撃するだけでなく、宇宙人に遭遇してしまう可能性があるのだろう。

だが。忘れてはいけないことは、私たちの人生は「スピリチュアルに目覚める為にある」のでも「宇宙人に遭遇する為」にあるのでもない。エネルギー問題で悩む為でもなく、災害で苦しむ為でもない。それぞれが、自らの人生を通して「魂を磨き、愛のエネルギーに満たされていく」為に、すべての人の生きるチャンスを神様から与えていただいているのだ。

日本は関東大震災の直後、レイキの初代である臼井先生が広げた手当療法がまたたく間に日本中に普及し、戦前は日本全土に数十万人が実践するまでになった。その多くはレイキと呼ばれずに、単に「手当療法」として普及していた(ほとんどの人がレイキがルーツであると知らずに実践していたようだ)。ただ、現在のレイキと同様、その根源的なエネルギーをシステマティックに「師から生徒へ」伝達するテクニックは、ほんの一部の弟子にしか受け継がれなかった。それは戦前(まさに開戦直前)にハワイに持ち出された。そして数十年後、あるドイツ人の手によって札幌に里帰りをし、ここから日本中に再び広がった。聖火リレーのように、レイキという火は消えることなく今日まで受け継がれている。

本を読まなくても、衝撃的なスピリチュアル体験をしなくても、レイキを実践するだけで「学ぶべきものは学べる」と思う。まして宇宙人に遭遇する必要などない。

だからといってレイキを学べば、魂が学ぶべきことをすべて学べると言っているのではない。いかに生きるかを決めるは本人の自由意思の「内なる変化の現れ」でなければならない。そうでなければ、自分の糧にできず、愛を知ることにはならない。愛を学ぶには、まず自分の人生に「愛が満ちている」ことを知らねばならず、それを味わい、糧にすることによってはじめて私たちの魂は「愛を学ぶ」ことがかなう。

神様は必要であれば神の子を地上につかわす。弘法大師のような偉大なる天才をもつかわす。すべての人に救いがあると親鸞を通して教えてくださる。信じようと信じまいと、手をあてれば楽になれるという不思議な技法をもたらしてもくださる。宇宙人は神の使いではなく、この宇宙に在るすべての意識は神の愛を学ぶ為に存在しているのだと思う。宇宙人ですらきっと発展途上人なのだ。