光はあなたの内にある
光はあなたの内にある
私はこの言葉に出会って以来、そんなことがあるんだろうか?自分の内っていったいどこ?誰の話?そう思ってきました。
私は人生で常に探し求めているものは光です。神様とはいいません。もっとシンプルで純粋で普遍的な何かです。それをいつも追い求めています。私は宗教家ではないので信心を持っていません。信仰も持っていません。ただ真理を追い求めていたいだけの人間だと思います。
生きる意味、自分が存在する意味、人間が存在する意味、そんなこと考えてもわかるはずがないけれど少しでも理解したい、そして少しでも光に近づきたい。本当にただただそれだけの思いで生きているといっても過言ではありません。
こんな時代になってすごく思うことがあるので、今日は改めて私がこのサロンを作った経緯とここまでの流れ、そして今後について本当に簡単にまとめておこうと思います。
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光のサロンは2001年の12月にスタートしました。12月は私にとってこのサロンを稼働させた月でもあり一年の節目に当たります。ちょうど丸22年間、突っ走ってきたことになります。当時を思えば22年後の今が信じられません。全く先が見えず、何がどうなるのかもわからずただがむしゃらに突っ走ってきました。22年前はスピリチュアルな世界はほぼ認知されていなかったし、サロンを立ち上げて継続させていくことは現実的にはどう考えても不可能でした。私はほんの数年で終わるかもしれないと覚悟をしていました。それまで必死に働いて得た貯蓄を全て使い果たす頃が潮時だろうと。資金が底をついたら仕方がない。それまではとにかく突き進んでみようと思いました。
私は手本にしているものがなく、人のサポート、アドバイスをほぼ受け取らず(耳を貸さずとも言いますが)ただただ自分が思うままにサロンを立ち上げてしまったんです。何ができるって、ちょっとだけ音楽が作れたりヒーリングをちょっとばかり学んだり。現実的にメニューにできることといえばその2つぐらいでした。
時間がどんどん過ぎていく、毎月ずっと赤字が続く中でなぜあきらめなかったのか、なぜやめなかったのか。それはひとえに光を求めていたからです。そして私にはたった一つの光明らしきものが見えていました。それは赦し、という言葉でいえるものです。
この向こうに赦しがある。
私とっての光とは、言い換えるならまず赦しということになります。私は自分が地獄から這い上がってきた魂だと自覚があります。闇に落ちたことがある、という霊的な自覚です。それが大きな罪悪感を常に生み出していました。私はこの世界にいてはいけない、存在してはならない、人目に触れてはならない、そんな罪悪感です。そして孤独でした。あまりに孤独の闇が深過ぎました。それでも私は信仰を頼ることができませんでした。遠い昔、まだまだ若い頃、友人から連絡がありました。今日は私の大切な日だから是非⚪︎⚪︎教会にきてほしいと。一体なんだろうと出向いてみるとその日が友人の洗礼式でした。それなりに親しいと思って友人だったのですが、そこに至る経緯を知らされることもなく、ただ洗礼という儀式を目の当たりにして少々驚き、そして一人取り残された気持ちになり寂しく帰ってきました。信仰の一体何がそんなにいいんだろう?と解せない気持ちが湧いてきて、私は聖書というものを初めて手に入れて読んでみました。が、ほぼ読めないままでした。私の心に響くものではなかったんです。その聖書を手に入れてから50年ぐらい経ちます。聖書ってどうして紙質が悪くならないんでしょうね。今でも新品のように紙が真っ白でしなやかなんですよ。ちょっと不思議です(あと500年ぐらいは持ちそうな気がします)。
数週間前、その聖書を久々に手に取ってみました。あるページを少しだけめくって、ああ、もういいんだなと思い閉じました。私はもう聖書を開くことはないと思いました。
私はもう62歳になってしまいました。もう若くありません。がむしゃらに突っ走るということもできません。ただただこのサロンを守り抜いて22年間、守衛さんのようにずっとここにいます。私はこのサロンの主役でもなんでもありません。
サロンに来られた方は気づいている方もいるかもしれません。サロンを借りた時、内装工事を自分でやり壁を塗り終えた時に最初に取り付けたものがキリストの絵でした。あれ?と思うでしょうね。私は信仰は持っていません。キリストを信じてはいません。が、私ほど赦しを必要としている魂もいません。そしてその赦しを与えてくれる象徴はいうまでもなくキリストです。
私は教会に通ったことはないし家族にクリスチャンはいません。私の生い立ちの中には信仰も教会も存在しませんでした。霊的な感性が強い家系ではあっても、キリスト教とは全く無縁の家系です。でも私のなかにどうしてもキリストという存在に向かっていく心があるのです。そしてそれは非常に霊的なところから由来するものです。
今となってはなぜ私の魂が闇の底から這い上がってきたのか、経緯も知っていて客観的に理解もできています。が22年前はまだ何もわかっていませんでした。
私はある時「内なる光」ということについて考えました。
そしてそれは「確かにある」と確信しました。それはどうして確信したかというと。私のセッションを通して罪深い意識を背負っていた方が肩の荷を下ろしていかれるからです。人を傷つけた、裏切った、家族に負い目がある、自分が嫌い、などなどたくさんの心の中の闇を私は引き受けてきました。そしてみなさん、その闇をサロンに置いていきます。来るときと帰る時では表情が全く違います。本当に別人のように明るい表情になって帰っていかれるのです。それは光のなせる業です。私の力ではありません。
罪深い心を抱えた人がサロンにいらっしゃる。私はただただ話をきくだけです。そして思いつくことを淡々とお話をします。経験から学び、分析できることも増えましたので人の人生で起きる様々な苦悩、葛藤の背景がみなわかるようになりました。なぜ苦しいのか、どうすればいいのか。その本当のところを私は紐解いて導くことができるようになりました。そうこうしているうちに相談者さんの闇は消えてなくなってしまうのです。それは光の業です。赦しが起きるのです。
私は毎日のように相談者さんの闇が消えていく様を目の当たりしています。同時に私の中の罪が赦されていくのです。私の罪はまだまだ赦され続けていくのでしょう。いつ終わるともしれません。
あなたが光を受け取りに来るから、私も共に光に導かれていくことができます。
私に取ってはあなたが光であり赦しです。
あなたも私も、間違いなくそれぞれの中に内なる光を宿しています。これが私が知っている真実です。これからもこのサロンでのご縁を通して皆さんの内なる光を共に体現していきます。
読んでくださってありがとう。私がここにいる間に是非、会いにきてください。まだ見ぬあなたへ