季節感を感じながら生きることの大切さ

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この数年間は季節感をとくに大切にしています。体調や心身のバランスだけでなく、仕事や人間関係など、ほぼありとあらゆるアドバイスをする上でも季節の移り変わりを見据えて未来の展望をお伝えすることが増えました。

もし、これから先、なにかしっかりと結果をだしたいと思っている方は特に、目先のことだけでなく来年の春や夏のことを考えましょう。できれば、更に翌年の春から夏にかけての流れも思い描けるようになってください。私たちの人生は「体」あってこそであることは言うまでもありません。そのうえで感じたり、考えたり、判断したりしています。魂だけで生きている人はいません。心だけで生きているのでもない。やはり、自然の移り変わりのなかで息づいている「体」があり、その枠のなかで私たちの意識と精神が活動できるわけです。

今だけでなく、来年、できれば再来年までの人生の流れを見つめながら、今必要なことはなんなのかを考え、選び、日々成すべきことを積み重ねていく。人生において、なんらかの結果を出そうとするとこれが一番着実な方法だと思います。

今は冬の入り口。だけれど一年の始まりのサイクルに向けて、しっかり準備を整えていく時期でもある。この時期に、来年一年の流れを思い描いておくことはとても大切です。

もし、今年を振り返ってあまり良い結果が出せなかったと感じている方は、今年だけではなく昨年の流れはどうだったのか、一昨年はどうだったのかも振り返ってください。過去は3年ぐらい遡って反省するようにすると、今年はあまり良い流れではなかった理由がみえてくることがあります。

来年の為に、今この時期になにをしたらいいのか。再来年、もっと結果をだす為には、今、そして来年にむけてどんなことを心がけていけばいいのか。体のこと、メンタルなこと、人生の方向性のこと、いろいろなことを私たちは同時に考えて判断していかなければならない。生きるってなにかと大変。ぼんやりしているとあっという間に何年も流されてしまうこともよくあります。けれど、人生は後戻りできないことはもちとん、繰り返す余裕すらないものです。

あなたの人生の時間は限られている、ということを改めて意識してください。そして大切にしてください。今生はただ一度きりの貴重な人生なのですから。来世があるさ、なんて油断はいけません。今を尽くさなければ来世にも影響があるのですからね。

なぜ苦しみはなくならないのか

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なぜ、日々苦しいのだろうか。
なぜ、何度も苦難が繰り返しやってくるのだろうか。
いつになったら楽になれるのだろうか。
いっそのこと・・・

といったように、わたし達は、いつも苦しいということに、正面から対峙してしまう。
そして、とらわれ、もがき続けるものです。

でも、わたし達の魂は自分の人生に対して「なぜ苦しいのか」という問いかけをしないんです。
逆に、魂は「いかに生きるか」しか考えていないのです。

誰しも、苦しむ為に生まれてくるのではない。
生きる為に生まれてくるのです。

だから、生きていることは、有り難い、かけがえのないチャンスなのだ、ということを是非意識してほしいと思います。

愛とはなんだろう、と考えること。

自分は人を愛することはできそうにないな…ということを、私は思春期にはいった頃からずっと考えていて、基本的に今もその感覚はあまり変わっていないような気がします。つまるところ「愛する」ことの定義を知りたかった。思考が理屈っぽいというか、愛すらも科学的な原理を探求しようとするところがあり、だから哲学や心理学には非常に興味を持ったものです。愛という言葉があるところには、常に引き寄せられていった気がします。

言葉で理解したり納得できることは少なくて、結局、個人的に「愛」というものを一番、実感してきたのは音楽だったり、自然だったり、あるいは純粋無垢な幼年期の子どもとのふれあいを通してだったりしました。年々、愛について少しずつ自分なりの理解が深まってはきていると思います。人は愛に悩み、愛にもがき苦しみ、そして愛にふれ歓喜を味わう。それは単なるドーパミンによる神経学的な事象でしかないのか、すべて神がつくられた崇高な原理なのか。

答えはなんにせよ、人間が変化成長する最大の鍵であり、動機であり、エネルギーになっているのではないかと思うのです。愛が私達を育て、生きる目標を与えてくれているのだとすれば、人類の歴史を創りあげる根源的なパワーであることは間違いないでしょう。

ひとりひとりの愛のあり方は、皆違います。愛を見失っている人、探し求めている人も多いかもしれません。愛あるがゆえに苦悩し、さまよっている人もいるでしょう。愛に絶望し、愛に見放された気持ちになっている人もいるでしょう。愛をつかみはじめ、いきいきと前進し始めた人もいるでしょう。それぞれがどんなステップにあるにせよ、季節はとまることなく巡っていきます。一年は365日しかありません。人生はそれほど長くはありません。現実を生きられる時間の枠のなかに、すべての人は押し込められている。その枠のなかで、それぞれの愛と向き合っていくよりないのですね。できるだけ効率よく生きる工夫をしましょう。そして貴重な一回きりの人生という素晴らしいチャンスを大切にしたいものです。

子供は所詮、子供?

子供は幾つになっても親離れできない面を持っています。実年齢が進んで、社会的にはもうとっくに成人していても尚、親の庇護のもとで暮らしている人もいます。親御さんからすれば、いつ親離れしてくれるのか、自立してくれるのか。自分の目の黒いうちはいいけれど、老いて守ってやれなくなったらこの子はどうなってしまうのか。年を重ねても尚、やきもきし続けている親御さんもいらっしゃいます。親に対する子の内面には、一生かけても成熟しきれない未熟さがあります。それは親子という関係性があるからなので、親は親で頼られてこそ、という自負がある。けれど、あまり頼られすぎても困る。子の側だけの問題ではなく、親子というのは与える側と甘える側の関係性ですから、当事者同士でしかわからない引力が生涯、働き続けるものです。

子が小さいうちは、親としては守るのは当然だし、子も甘えるのが普通。子の実年齢が成人してから先は、現実の関係性はどんどん変化して、はたから見れば自立しているように見えるけれど、心の内側では親子の因果関係はさほど変化していなかったりもします。どれだけあっさりなのか、どっぷりなのかは、すべての親子でまったく違います。まったく親を頼りにしない子もいますし、真逆の場合もあり、本当に様々です。

子供は意外と大人?

子供の気持ちを汲み取るのは、親でも難しいことがあります。子供ってなにを考えているんだろうか? その態度や表情だけでは読み取れない内面性を持っているものです。よくあるのが、親に対する気配り、思いやりを表している場合です。小さな子供でも、親を大切にしたい、孝行したい、そういう意識はしっかり持っているものです。それが強い子は、なんらかの表現をします。ただ、それを上手に表現する術をなにも持たないですし、どうやったら喜んでもらえるのか知っているわけでもありません。だから、結局はひとりよがりな表現で終わってしまうものなのです。親からすれば、なにを言いたいのかな? もしかしたら、なにか不満があるのかな? 勘違いをしてしまうのです。

子供にも、大人とかわらない思いやる気持ちが備わっているというお話でした。

誰にでも開花の可能性はある

ヒーリングとか、カウンセリングとか、チャネリングとか、リーディング等々を行う人を「セラピスト、ヒーラー、カウンセラー、チャネラー」といったりする。なんでもいいけれど、とにかく「見えない世界のこと」とか「スピリチュアルなこと」を仕事にする人は、これまでは普通の人ではない、といわれていた。

だから、僕は普通の人間じゃないのかもしれないなぁと絶望的な気持ちになったことがあって、そんな心持ちでは生きるのが辛い。だから長い間、能力を隠してきた。でも、能力ってあっても使わないと伸びないし、伸ばして鍛えないとプロにはなれないもの。

じゃあ能力とか資質ってどれぐらい必要なのだろうか。

音楽でいえば、ミュージシャンになるとか、作曲家になるとか、音楽の世界で食べていけるようになるってどれぐらい才能が必要なのかということと話は似ている。

かつて才能も経験も学識も備わっている大先生や超有名ミュージシャンの人達となぜか接点があって、とにかくあの人達は凄かった。やはり偉大な人は違うな、と思ったものです。ただ偉大過ぎるとたちうちできないから、もう少し敷居の低い先生のほうがいい。で、自分にとって一番大変だったが、命がけてくらいついた作曲家の先生といえば田中公平先生。ある時なぜか共作で仕事をするハメになってしまった。むこうは百戦錬磨の達人だしプロ中のプロなわけですし業界では最高に有名人だし、実際ものすごいレベルの高い仕事をなさる。一方の自分はといえば経験も浅くて引き出しが少ないから、すぐに煮詰まってしまう。この圧倒的な力量の差の前でひたすら無力感でした。

でも付き合っていくとわかってくるのですが…先生はそれだけ努力してるんですよね。そこはプロの意地ということもあるし、それに見合うだけの下積みもある。そういった部分は一般の人からみえないのですが、同じ土俵にたってみるとみえてくるものが多々ある。だからいっきに同じレベルのことはできるはずもないし、そこで立ち止まってはいけない。思い返せば田中先生と共作してた時は毎日、眠れなくて。文字通り食事も喉を通らない日々。しまいには譜面に追いかけられる悪夢をみました。辛かった…。あちらはバークリー音楽院出身で、かたや自分は作曲法なんて独学ですしプロとしての経験ゼロだったんですから。横綱に小学生(いや小人かな)が挑むようなものでまるで次元が違う。その時に感じた圧倒的なコンプレックス。これが実はいい薬になりました。自分が未熟であることをとことん実感する。後で思うと、その後自分が作曲で伸びていく一番の糧になっていたと思います。だってその数年後に海外レコーディングをやっちゃったわけですから。あくまでサウンドトラック担当という枠ではあったけれど自分の名前でメジャーからCDも幾つかだしました(とっくに廃番ですが)。

そうやって音楽の仕事を一流の人達と肩をならべてこなしていく流れのなかで理解できたことは天才なんていないってことです。生まれ持った奇才、天才の類の人は業界にはほとんどいなかった。三枝成彰先生と仕事をした時に、先生がいった言葉が印象的だった。作曲は技術だって。その時に自分はとてもびっくりしたんです。え?作曲って才能じゃないんですか、と。それまで自分は音楽の才能がないと思い込んでいました。だって音感なかったですし、楽器もろくに弾けないし。音楽の仕事で伸びる要素は自分にはないと決めつけていたのです。三枝先生の言葉をきいてちょっと意識が変わりました。

音楽を作るには、たくさんの人と共同作業をしないといけません。発注する人がいて、受注する人がいる。そこから各担当者に仕事が割り振られる。楽譜を書いただけでは、なんにも形にならないのです。一般的な工程数でいえば作曲家が楽譜を書くのは100分の1ぐらいの比率じゃないでしょうか。残り99%の工程はいろいろな人が関わって完結する。

ヒーリングでもカウンセリングでも、なんでもそうですが天賦の才能なんて必要ありません。そりゃあったほうがいいけれど、たとえあったとしても伸ばす努力がなければ活かされません。しっかり勉強して学んで修得して磨いていけば、多くの人にはその可能性の芽がでます。あとは周囲がその人を活かすでしょう。なんにせよ一人で独学でやっていてはうまくいきません。認めてくれる人も必要、世に出るきっかけを作る人も必要。音楽とか芸術の世界であればオーディション的なものに応募するとかでチャンスもあるかもしれない。ある程度の独学もいい。けれど、実際に開花させようとする際には一人のちからでは無理です。

スピリチュアルな世界もやっぱり同じ。ほとんど(いや全てといっていい)は技術なんです。だから、きちんと学び、研鑽を積んで努力をする。ある程度、技が磨かれたら社会との関わりのなかで実践的に挑んでみる。そこまでの流れを一人でつくりだすことは不可能です。スピリチュアルな世界に限らず、なにか夢を持っていてそれをかなえたいならどこかに入門することです。あるいは、いろいろな経験者と接触をしてさまざまな体験を積むことです。先生は何人いてもいいと思う。でも、ある程度の期間はみっちり修行もすべきだし、世にでるきっかけや流れを作ってくれる人達との関わりを求めていく必要があります。

才能があるとかないとかで、けして悩まないで欲しい。逆にすこしばかり才能があるからなんとかなるとも思わないでほしい。しっかり学びましょう。地に足つけて時間をかけて積み重ねていきましょう。そういう人に社会は期待をするのです。ローマは一日にしてならずです。でも地道に積みさ重ねていけば自分の王国はかならず作れるのです。

だから、なんでも一人で考えこまないで相談するところからはじめましょう。そして学ぶ機会を求めること、磨く努力をすること。そうすれば人から頼られる人になれます。更にがんばればプロにだってなれます。

応援します。あなたにも必ずその機会は与えられますよ。がんばって!

小さい器

人間は皆、小さい。その器の小ささ故に限界があり、その限界があるがゆえにジタバタする。ジタバタするが故にボロがでる。ボロがでるが故に批判を受ける。批判を受けるが故に反省ができる。反省ができ、なんとか方向修正ができ、小さな器のなかで、ちんまりと収まることができる。もし、器がもっと大きかったら一生かかっても、一区切りつかないことだろう…。

怖れる生き方

「怖れを手放そう」という表現がある。怖れも煩悩の一部だ。簡単に手放せないところが人間らしさでもある。だから難しいのだ。難しいことをがんばろう、なんとかやってみよう、というのはおしつけがましくて、あまり大きな声で言われたくはないかもしれない。

人生において「怖れ」るが故に、失敗したり、掛け違えたり、誤解したりされたり、対立したりすることは、本当によくあることだ。ありすぎて困るぐらいたくさんある。もし、人間が「怖れ知らず」な存在だったなら、この世の中はどうなっていたんだろう。天下泰平だろうか…。いや、逆に味気なく無味乾燥な世の中になっていたかもしれない。穏やかであること、安らげる世界であることは誰にとっても普遍の願いに違いない。だが、私たちの内部には「怖れ」という忌まわしき敵が潜んでいる。

怖れといかに向き合い、超越し、その向こうにある「自分らしい生き方」にたどり着くか。そこに人生の知恵の全てが網羅されているといってもいいのではないか。怖れを通して私たちは日々、ほんとうに多くを学ばされている。

とどのつまり「怖れる」ことも、生まれてきた時点で宿命といえるのではないだろうか。であるなら、あるがまま内なる「怖れ」と対峙し、人生の最後の日に勝敗がいかにでるのか甘受しようではないか。

悔いない生き方

今日は「悔いない生き方」について考えてみよう。

「悔いる」とはどういうことか。古今東西で微妙に定義が変わってくる。西洋では「悔い改める」という概念があるが、これはあきらかに宗教的なニュアンスが濃い。そして西洋的な個人主義社会では「悔いない生き方」の定義が、個人の「意思」に重点が置かれる。つまり「自分に恥ずかしくない生き方」であるかどうかに非常に重きがおかれているようだ。個人の尊厳を大切にする社会だから当然だろう。

日本人である私たちにとっての「悔いない生き方」は、いったいどのようなものなのか。そこにはたしかに「悔い改めるべきことがあれば、改めましょう」という真摯な姿勢も感じられる。だが、それは私たちがもっている精神的な「伝統」であったり「空気」のようなものに対してあって、けして神に対してという概念ではなさそうだ。

よく西洋社会からいわれるように日本人はなかなか、よくわからない精神構造を持っているようだ。いったいわたしたちにとっての「悔いない」とはどういう生き方なんだろうか。ひとりひとりが自分の現実に照らし合わせて「自分はいったいどう生きれば悔い無く生きられるのだろうか」ということを考えはじめると、途端に迷路にはまってしまう。

わたしたちが持っている「悔いない」の定義には、あきらかに「自分自身が悔いない」というニュアンスが多分に含まれている。人に定義づけられるような生き方よりも、自分が定めた自分自身のマニフェストに従って「悔い無く生きたい」という願望を多くの人が持っているだろう。すると「自らの人生のマニフェスト」が明らかになることで、悔いない生き方はリアルに浮上してくる。悔いない生き方はなにかを追求するのではなく、自らの生きる指針(マニフェスト)を明らかにすればよいのだ。

自分の人生の最高責任者としての自分がどう生きたいのか。自らに問うことからはじめてみよう。

人生で大切なこと

人生のビジョンとはなにか、ということがカウンセリングを行う時に、実はかなり重要な要素になっている。相談内容がなんであれ、霊視する時にはその人が潜在的に携えている人生のビジョンを感じ取っている。はっきりみえている、といってもいい。

だからけしてぶれないアドバイスができる、ということだ。どんなに厳しい意見であっても、受け取る人にとって必ず糧になる、ということがわかるのは相手の人生のビジョンがみえているからこそ。

ビジョンがあるかどうか、ということは本当に大切だ。また、支え合う関係性においてもそれぞれのビジョンが合致しているかどうか、共鳴しあっているかどうか。なんらかの形で連帯があればうまくいく。だがビジョンが合致しておらず、共感しあっていない関係性においては、どちらかの魂が著しく疲弊していく。5年、あるいは10年という年月のなかで少しずつなにかが崩壊していく。

ビジョンは簡単に定まるものではない。そして一生かかっても尚、形にすることが難しいこともある。それでも、人はビジョンを探し求める。関係しあうなかでお互いのビジョンを探り合うこともある。一生かかっても、掘り下げ、定め、そして具体化しようとする。結果のでない人生もある。だが、良い結果、悪い結果、というのはないのである。いかなる人生であろうとも、ビジョンにむかって進んでいくことがなによりも一番、重要なのだ。

なにかを信じること。みつめつづけること。保ちつづけることだ。

ビジョンをみつけ、さだめ、形にできた!完成した!そんな人生など存在しないのでないだろうか。