子供は意外と大人?

子供の気持ちを汲み取るのは、親でも難しいことがあります。子供ってなにを考えているんだろうか? その態度や表情だけでは読み取れない内面性を持っているものです。よくあるのが、親に対する気配り、思いやりを表している場合です。小さな子供でも、親を大切にしたい、孝行したい、そういう意識はしっかり持っているものです。それが強い子は、なんらかの表現をします。ただ、それを上手に表現する術をなにも持たないですし、どうやったら喜んでもらえるのか知っているわけでもありません。だから、結局はひとりよがりな表現で終わってしまうものなのです。親からすれば、なにを言いたいのかな? もしかしたら、なにか不満があるのかな? 勘違いをしてしまうのです。

子供にも、大人とかわらない思いやる気持ちが備わっているというお話でした。

ひとつだけの人生をデザインしよう

人生は自由にデザインするもの。季節ごとに衣替えをするように。できれば、誰かが着ているものではなく、自分だけの一着をデザインしたほうがより楽しいだろう。大切なことは、他人を手本にしないこと。模倣はつまらない。それぐらいなら、最初からオリジナルのたったひとつだけの人生をデザインしたほうがいい。

わかって欲しくても、説明するのが虚しくて、わかってもらうことをあきらめてしまう

孤独がいい、という人はいないのではないか。誰だって、わかりあいたい、ささえあいたい、と考えていると思う。けれど、わかってもらうことをあきらめる、ということがある。

もし、未知の土地に行って困ったとする。言葉が通じない、身振り手振りで訴えてもやはり通じない。やがては疲れてしまうだろう。人は食べなければ生きていけないが、わかってもらえなくても、食べたり、呼吸することはできる。いわゆる死活問題にはならない。であればあきらめてしまうこともあるだろう。

わかってもらうことをあきらめてしまった人がいたとして。本当にあきらめているのか、といえば。けしてあきらめきれてはいないと思う。ただ虚しい日々を送るよりは、なにか前向きなことをひとつでも見つけて取り組みたいと考えるものだ。人は打算的に生きられるところがある。けれど、それは本当の自分らしい生き方とはいえないかもしれない。

自分の為に学び、行うもの。それがレイキです。

レイキを学んでくださる方も、通算でいえば相当な人数になりました。当初は教えることに必死でしたが、今は続けることが本当に大事な要素だと感じています。

ただ学ぶだけで終わってしまうのではなく、日々行い続けるものとしてレイキを生活に取り入れていただければ、人生は必ず好転します。このことは今まで多くの人の取り組みをみてきて、間違いないと確信して言えることです。

学ぶときの大切さは、真摯な姿勢をもつこと。一生懸命に自分の糧にしようという気持ちをもつこと。それがあれば、誰でも学べます。教師も増えましたから、自分との関係性でよい教師を探してください。きっかけは興味本位でもいいし、病気治療でもいい。ただ自分の為に学びたい、という気持ちが大切です。あまり計算高くなるのはよくない気がします。

行う、ということは毎日、生活に取り入れるということなので、人生の少なからずの時間を費やすことになります。それだけの価値があることを信じられなければ続けることが難しい。だから、「なぜ、自分はそれを継続して行うのか」しっかり自覚し、目標をきちんと持つことがとても大事です。なんとなく学んでしまうと、これが得られません。だから、ひとりひとりの体質や気質にあわせた取り組み方をきちんと指導できる教師を見つけることがとても重要なんです。

しっかり学び、そして何年も継続する。すると人生はとてもよい方向に自ずと転じ始めます。一度、勢いがついた人生の流れはもう減速することはなくなるでしょう。

一所懸命に生きる

オリンピックなどをみていると、お国柄が現れるというか、選手と国との距離感のようなものがみえてくる。そしてまた、自分も日本人なのだという気持ちを新たにできる。穏やかでない情勢の国も多々あったり、日々を生きることが簡単ではない事情の人も多くある中で、スポーツ観戦に興じることができるのは、本当にありがたく幸せなことに違いないでしょう。

日々を懸命に生きる、という話で。ちょっと日本語の難しさのようなことを考えていました。
「一生懸命」というのは、元々は「一所懸命」と言っていたのだそうです。一生懸命が完全に定着してしまったので、もはや誤用ではなくなってしまいました。言葉はつねに新しく作られ、生まれてくる。あるものは長く使われるし、あるものは記憶に残らずに消えていく。

ちなみに「一所懸命」は、武士が領地を命がけで守る、という意味だったそうです。そういう精神性を道民である私達は先祖からたくさん受け継いではいないかもしれない、けれど、一所懸命にこの自然を大切にしていきたいものです。冬季オリンピックは道民がとても活躍します。選手の皆さんには、たくさん勇気をもらいましたから、日々自分達の日常に、しっかりとりくんでいきましょう。

遠い記憶のなかのノックの音

運命の扉を神様がノックする。そんなことが人生には稀におきる。

選択をせまられる。やってみる?それともやらない? どちらかを選ぼうとする時に私達は躊躇する。特に、誰も選ばない未知の世界に飛び出すのは勇気がいる。そんな選択であればあるほど返答に迷う。けれど、時は限られている。期限までに答えられないのなら、機会は奪われる。

やれるかどうか、やってみなければわからない。でも、時に人は前人未到の生き方を選ぼうとする。なぜなら、それが「誇り高き生き方」だから。人と同じが嫌ならば自分だけの道を選ぶことになる。けれど、それは孤立を意味する。そこに行った者でなければわからない孤立感。それを乗り越えられることもあれば、挫折することもある。

ノックの音がきこえたらどうするか?
あるいは、あなたはすでにその音を聴いたのかもしれない。この世にやってくる前に。

雑感:著作権で思うこと

著作権といえば、過去につくったほとんどの曲の著作権を自分で所有していない立場です。会社に在籍していながら作曲をしていたのと、ゲーム音楽というのは音楽の世界でも特殊。ゲーム音楽の黎明期から関わっていますが、当初はJASRACでも扱いが決まっていなくて、何度か問い合わせたことがあるんですが、先方もゲーム屋さんがなんで問い合わせてくるの?的な対応だった。

最後の作曲の仕事はCD化されたのですが、そのあたりの著作権だけなぜか個人名義になっていたのを後で知りました。多分、手続き上のミスではないかと思います(笑)。そのせいか公の場でコンサートなどをやるとJASRACから手続きするように、と書類が届いてしまいます。

ちなみに音楽の著作権というのは、わりと売買されてしまうもので。JASRACに登録されている著作権の所有者が、実際の作曲者と一致することって、どれほどあるのだろう。それにJASRACからお金を受け取って暮らしていける人って、ほんの一握りで多くの音楽家にはあまりご縁がないではないか。そもそも作曲家だけが音楽家ではないですしね。

作曲家もさまざまなスタイルの作り方をしている。

そういえば昨年末の紅白でもダブルキャストで演じられた「◯◯のメモリー」という昨年のヒット曲。そもそも朝ドラというものを見たことがないので紅白で初めてじっくりと聴きました。こんなヒット曲が昔あったかな〜と、なんとなく懐かしい気分に浸っていました(つまり、懐メロだと思い込んで聴いていました)。皆さんはご存知なのでしょうが、その曲は朝ドラの為に作られた新曲だったんですね。今日まで気づいていませんでした。すっかりダマされた、というわけです。たしかに、よく考えればわかることですよね。それにしてもよくできている…。あの曲は、ドラマの音楽担当をしていた大友さんという方と、何人かの人達で共同で作曲されたものなんだそうです。そういう音楽の生まれ方も楽しそうで、素敵ですよね。

つらつらとそんなことを考えていたら久しぶりになにか作曲してみたくなってきた…。面白い依頼、ないかなぁ。1小節だけ参加するのも楽しいかもね。サビだけ考えるとか、そういうのも楽しいし。

※「◯◯のメモリー」の一小節だけ作った方の著作権はどうなっているのかなぁ。と余計なことがちょっと気になるのでした。

過去を手放すお手伝い

カウンセリングというのは、過去を手放すお手伝いをしている、ともいえるかもしれない。葛藤も不安も怖れも、過去の体験のなかにある。昨日の体験、昨年の体験、幼少期の体験、自覚はたいけれど魂の体験…。時間も時空も越えて、私達の意識は未来をみてはいない。過去につながり、とらわれている。必要最小限に過去を切り離し、整理し、前に進みやすい状態を作ってあげる。山に登りたい人の為のガイド役のようなもの。体調を考慮しペース配分を決め、代わりに荷物を持つこともある。前進すべきかどうかタイミングを見極める。進んではならない時にけして無理はさせない。経験もさることながら、技術も相当必要な仕事だ。

過去の経験はエネルギーとして、その人の存在のなかに留まっている。そのエネルギーを操作できれば、過去の力を弱めたり、排除できる。外科手術のようなものかもしれない。ただ、操作する対象がみえないエネルギーだという点が決定的に違うのだが。

自分で敷居を高くし過ぎない生き方

人生は常に選択すべき場面が日々やってくる。そして、時に大きな選択を迫られる。特にそんな場面で敷居を自ら高くしてしまう人がいる。そうではなく、これからの自分に見合った敷居の高さを見極めていくようにできれば、さほど気負わずともそれなりに意義のある人生が送れると思います。