もうすぐ暖房が必要になる時期です。
ついこないだまで冷房をがんがん使っていた気がします。春と秋の存在感が次第に薄くなってきました。
(ふと小学校の同級生に春秋君という子がいたのを思い出しました。名字が思い出せません。さすがに半世紀前ですから。)
ということで本番前のストーブのメンテナンス。シーズン中に不調になると不便なので、今のうちにメンテナンス。分解してススがつきやすい部品を磨いて元に戻して終了。多分2〜3年に一回やれば大丈夫でしょう。
もうすぐ暖房が必要になる時期です。
ついこないだまで冷房をがんがん使っていた気がします。春と秋の存在感が次第に薄くなってきました。
(ふと小学校の同級生に春秋君という子がいたのを思い出しました。名字が思い出せません。さすがに半世紀前ですから。)
ということで本番前のストーブのメンテナンス。シーズン中に不調になると不便なので、今のうちにメンテナンス。分解してススがつきやすい部品を磨いて元に戻して終了。多分2〜3年に一回やれば大丈夫でしょう。
いつの間にか、自分のケア、自分のコンディションを保つこと、自分にとって本当は大切な取り組みが億劫になります。最初はほんの少し億劫になります。次第にすごく面倒になり、考えたくなくなります。そうこうしているうちに流されている感じがしてきます。
最初のうちは少し気持ちがモヤモヤ、パッとしない感じが続くのですが、このような状態が長く続くと残念なことが増えやすくなるので、雑草の芽のうちに摘んでしまうようにしましょう。
遠回しだと良くないので、今日は初めてブログに少しストレートに書きます。
定期的にリピートしている方は、以前より間が1ヶ月余計に空くとめんどくさくなってしまいます。
私はこのサロンを立ち上げて以来、一度もブログでこのような呼びかけをしたことがありませんでした。今日までは皆さんの自主性を重んじる姿勢で問題がなかったのです。
しかしながら、地球の空気が変わりました。時代が確実に移行しつつあります。個々の問題ではなく、全体のことが大事なんです。視点を変える機会、タイミングでもあります。
引き続き、皆さんの視野が広がり時流にうまく乗っていくコツについてサポートを続けていきます。私は十分に準備を整えていつでも皆さんをお待ちしています。これからは少しずつこのような呼びかけはしていくことにします。皆さんがタイミングを逃しすぎないようにするのも、大事な役目の一つになりましたから。私の仕事への姿勢も少しずつ変えていきます。
今日は勾玉を作りました。
もっとも原石から磨いたわけではありません。勾玉に形になった石を浄化して不動明王の周波数に調整をしました。
不動明王は自然界の最もパワフルな存在です。宇宙的というよりは、どちらかというと自然界の摂理の中心的なパワーです。自然現象のあらゆる源流、その根本のパワーといえるかもしれません。
不動明王は一般的には魔除けとか、無病息災などの祈願の対象として信仰されていますが、私にとっては神仏というより摂理そのものというイメージです。そのルールを知り、学び、体感し、一体になっていく。そういう業を積んできました。
黒い石は不動明王のエネルギーと、とてもよく共鳴します。きっと末長くお守りとして役に立つことでしょう。
さて、私はこの地球は以前と表情が変わってしまったと感じています。皆さんはどうでしょうか。表面的にも色々な出来事が相次いでいて先が見えない漠然とした不安感はどなたもお持ちになっていることでしょう。ではどうすればいいのか?そこが一番、問題です。
私はこういう時代にこそ柔軟に生きる感性を養うことが最も重要だと思っています。そのためにも、過去を振り返るのではなく、今日を精一杯生きることを考え、実践していくのがいいのではないか。
長い年月カウンセリングや人生のサポートをしてきました。人が悩むのは過去があるからです。でも、そこにとらわれ過ぎてしまうと方向転換が難しくなります。まして新しい地球の時代に柔軟に適応するのは大変です。
過去を手放して方向転換をしやすくしておく。その上で新しい時代に柔軟に適応する力を養う。
こういうコンセプトでこれからは皆さんの人生をお手伝いしていこうと考え始めました。
地球は本当に何かが変わりました。だから私たちも変わらないといけないのでしょう。
来週はもう秋のお彼岸という時期ですね。
一生、記憶に残るような酷暑だった夏。まだその余韻の渦中にいるような気がします。
個人的にも、今月に入ってすぐにコロナの症状があり、しばらく停滞を余儀なくされました。幸い、どなたにも感染させることなく今は嗅覚以外は正常に戻りつつあります。体力も十分に回復しました。
おかげでコロナ症状への対処スキルが身につきました。喉にすごく負担がかかるので心掛けが必要です。
さて、このように不測の出来事で人生が停滞することに私たちは慣れていく必要があるのだろうと思います。何事にも意味があります。こういう体験にも必ず意味があります。けしてくよくよしたりせず、今できることを淡々と精一杯に取り組み続けるだけでいいと思います。
あまりペースが上がらない、生産性がかえって低下しているのが普通のことになりました。今までのようにいかない、以前ほどがんばれない、ということにとらわれないようにしましょう。今まで順調だったことを振り返ってくよくよしても始まりません。
今が最大限、がんばれている状態と思い直して、日々のペースを仕切り直していけば、一日一日を精一杯がんばれます。日々を新しい基準の日にしましょう。過去を忘れて、今日は今日一日の最善の結果が出せる日なのです。それを毎日、続けていくだけです。
なんだか地球はすっかり以前の地球ではないような気さえします。
であるなら、新しい地球に一日も早く慣れていくだけです。
人生のペース配分、目標設定を見直すにはもってこいのタイミングともいえるかもしれませんね。
一直線に並んでいると、ただ並んているだけ。
こうして輪にしてみると、ぐっと表情がでてくる。
手に持ってみると、たしかに何かがあると感じる。
始まりと終わりを閉じると輪になる。輪になることによって存在感が大きく変わっていく。広がりが生まれる、とでも言うのでしょうか。そしてその広がりはおそらく無限です。
物事、きっと全てそうなのです。
切り口(断片)を見ていても、きっと何もつかめない。もし何か終わってしまったとしても、そこを起点とすることで新たに広がる何かが生まれます。視点を変える、そして何かを始めてみる。新たに生まれ、広がり、未知の因果応報が未来へと導くことでしょう。
余談:
それにしてもこうして見ると、手のひらのしわのなんと多いことか。そういえば子供の頃からこの手だったので、人に見せるのが嫌だったなあ。誰も気にしてないことが自分にとってはコンプレックスになるものです。それだってきっと深い意味があるのです。
やっと暑さ指数についての報道が増えてきたのですが、いまひとつわかりにくい気がします。
結局、元の資料はこれが唯一です。
「日本生気象学会 日常生活における熱中症予防指針」と検索すると原典が見つかります。長いページの下部にこの画像があるのですが、もう少しわかりやすいところに置いてもらいたいです。
暑さ指数を常時、手元で確認するには一目瞭然でわかりすい温度計があります。子供でもわかるので便利です。
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携帯用にデジタル式のものもあります。外出時は持ち歩いた方がよさそうです。
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昨年ぐらいから暑さ指数を常時、確認するようにしています。デジタル式だと数字で確認できて非常に便利です。あるとないでは生活が変わります。
1日が早かったり、ゆっくりだったり。
10年があっという間だったり、ものすごく長かったり。
ものすごく遠い記憶が不意にリアルに蘇ったり。
自覚できている時間の流れが主体的すぎて、定まった物差しはないのかもしれない。
無自覚な世界では時間はもっと遅いかもしれない。あるいは過去にとらわれず未来を感じているかもしれない。
人生は広大無辺に思えることもあれば、すごく狭く細長い暗い迷路のようでもある。
私たちは主観でしか物事を感じたり理解できない。
でも実際には、感じられない自覚できないところで動いている世界との関わりがたくさんある。
あるようでいてないのが時間かもしれない。
ないようでいてあるかもしれないものが、未来の可能性かもしれない、そう考えることで救われる気がする。
無意味な一日、虚しい一年、寂しい一生としか思えなくても未来はある。未知の可能性はいつでも無限にある。
そこを探しにいく。そう思ってみるだけでちょっと気持ちが晴れることだろう。
アンコンシャスミッションとは、気づかざる使命のこと。
魂はその目的を全うするために「生きているうちは自分の役目を果たしていることに気づかない」という選択をすることがあります。それは、とても厳しく、孤独な人生です。なぜって「自分の生きている意味」を実感できることがないからです。
人は、生きながら何かを感じ取っていないと、不安になり、虚しくなります。いつかは心身ともに疲れ果ててしまうかもしれません。それでも遠い昔の時代は人の寿命というのは短いものだったのでさほど問題ではなかったのです。が、今という時代は魂が想定している以上に寿命が伸びているので、想定外に疲れるのです。せっかく大切なミッションの途中で棄権してしまうことも起きやすくなります。
アンコンシャスミッションがなんなのか、気づくことが大事な時代になりました。
人生の全てを俯瞰する
言い換えれば、いかに生きて、いかに死ぬのかはすべてあなた次第、ということです。
本当に生き方を根本からしっかり見つめ直す時がきました。生きている限り、誰一人逃げも隠れもできませんね。
一年が早いと思うこともあれば、長かったと思うこともある。
昨年は春先に母が倒れた。午前6時に母から緊急コールを受けた時はさすがに慌てた。同時に父の認知症が進み、対応に四苦八苦。その上、父はコロナに感染して隔離入院となった。
コロナだからどうしようもないのだけれど、私たちは父が隔離病棟に入院したことで、腹が決まった。
面談もできず連絡を取る術もなく2週間、一人で隔離されている父には申し訳なかったが、私達は平安な時を過ごすことができた。
父は退院後、ますます認知症が加速していった。ついに私たちは限界がきたことを悟り、父を永続的に入所させることにした。入所にあたり一番、大変だったのは父の生活用品を取り揃えることだった。それ以外のことについては、結局家族がすべきことは限られていた。相談できる人に相談し、行くべきところに行き、書くべき書類にサインをする。ほぼこれだけだ。何かを判断する必要もあまりなかった。ただ委ねていればよかった。とても困ったこともあったり、先が見えなくなった瞬間もあった。それでも同じことを繰り返すのみ。ただひたすら委ねていく。
最終的に(そこに至るまで色々あった、まさしく色々だ)父が入所して約、半年が経過した、今のところ暴れることもないし、寝込むこともない。細かいことはあるのだが、穏やかな日々である。
父が実家で母と暮らしていた時、父の認知症がどんどん悪化していく中で、母は何度も「一緒に死んでしまいたい」とこぼすようになった。母の記憶力がどんどん落ちていき、耳も遠くなっていく。父が入所していらい、少しずつ記憶力も、耳の調子も回復して、今では全く心配なくなった。というより一人暮らしをのんびり満喫しているようにすら見える。
私が子供の頃、、母は揚げ物を作ることがなかった。忙しい人だったので母が作る料理は実に質素だった。私は時々、中華料理が食べたくなって炒飯や青椒肉絲ーを勝手に作って食べたりしていた。それなのに、最近、実家に出向くと「揚げ物」惣菜が買い置きしてあったりする。
一番、意外だったのは「ブルーマウンテン」があったことだ。
我が家はコーヒー党は一人もいなかったが、受験生だった私たちのためにネスカフェの大瓶が常備されていたぐらいだ。だが、昨年、実家を訪問した時にブルーマウンテンの粉が買い置きされていた。
父がいた頃は、父のために母が買い置きしてあったようだが。父が入所した後でもそれがある、ということは母の好みはブルーマウンテンなのかもしれない。前回、帰省の際に一緒にスーパーに買い物に行った。母はコーヒーのコーナーに行くと迷わず「ブルーマウンテン」を手に取り無造作に買い物カゴに入れた。
もしかしたら若い頃にどこかで飲んだことがあったのかもしれないし、名前だけ知っていたのかも。あるいはスーパーで売っているコーヒーの中で一番、高いものを選んだだけなのかもしれない。本当のところはわからない。が、母は、ブルーマウンテンと、キットカットの緑茶味が好みだということを初めて知った。
なんだ、そうだったのか。母にも「好み」というものがあったのだな。考えてみれば当然だ、人間だもの。
何にも欲しいものがない、やりたいこともない、ただ私たちのために働いて、苦労して、老いていった人。私の中で母は本当に苦労人だった。が、そんな母の中にも「好み」と言うものがあったと言うことを初めて知って、心から安堵した。これで少しは人生を取り戻してもらいたい。
施設に預けてしまった父には申し訳ない気がするが。認知症が進んで日付もわからなくなった父にとって今の暮らしが、苦痛なのか?そうでもないのか、知る術もない。が、施設に会いに行くと、自宅にいる時にまして饒舌になったのはどういうわけなのだろう。薬のせいなのか、施設の人たちの良い意味での影響なのか。どちらにしても自宅にいた時より元気になったのは私たちにとっては大きな救いになっている。それで良かったのだと思えるから。
ランディさんの「サンカーラ」を読んで、ある程度のイメージは持てていたかもしれない。が、実際に老いと介護に直面すると、ひたすら委ねることの実践は、大変であった。
まだ最後の日まで、委ねる実践は続きそうだ。