スピリチュアルのはじまり

今でこそスピリチュアルといえば、そういう世界?というある程度の定義付けが為されているので、オーラがどうこうといった表現は市民権を得た。前世の話はまだマニアック過ぎるのかもしれないけれど。見えないものがある、という前提の話が好きな人は増えたのかもしれない。

そもそもなにがスピリチュアルで、そうでないのか。

この世にあるものはすべて波動の存在なので、すべてがスピリチュアルであるという言い方、考え方は間違っていない。それは物理学でもあるし、哲学や神秘学でもあるだろう。だが、けして宗教ではないと思う。論理的につきつめて、考えたり、学んだり、そして感じたりするもの。

空気においしい空気や重い空気、冷たい空気があるように。そこに何かの気配があることを感じたりする。そこになにかおおらかなもの、楽しいものを感じる。そして、そこに「自分にとってとてつもなく大切なもの」を感じたりもする。

ふと、なにか覚えているはずのない遠い遠い記憶がよみがえりそうになったりする。

ふと、ここではないどこかにもう一人の自分が存在しているような気がする。

ふと、今この瞬間、まったく同じ感覚を味わっている人がどこかにいるような気がする。

ひとりでいるはずなのに、全然ひとりじゃない気がする。でも、現実には誰もいない・・・

あれこれ考えたり、感じたりしている自分がいったい誰で、どこからきて、なにをしたいのか、さっぱりわからなくなったりする。

食べたり、眠ったり、働いたり、遊んだり、その全てが「意味ない」と感じてしまう。

生きていてなんになるんだろう、と、とことん考えてしまう。そして、その答えなんか絶対みつかりっこないと思う。

汗水ながしてがんばってもがんばっても、これじゃない、これじゃだめなんだ、と思う。

ぼんやりしていて、もやっとしていて、つかもうとしてもけしてつかめたりはしない。でも、どうしても気になって仕方がない。けれど、いったいそもそもなにが気になるのかすらもわからない。とらえようのないなにか、漠然としていてつかめないなにか。

それでいて、とってもすごく、大事に違いないと確信している。

それがスピリチュアル。

はじまりは、もう一人の自分と向きあうこと。そこにいる「あの人」に出会い、対話すること。すべてのはじまりはそこからスタート。

今日の徒然:下弦の瞑想

一昨日のことになってしまうが、瞑想のセミナーだった。下弦の月で瞑想をすることは、初心者にはとても安定した結果がでやすい。瞑想のなかで感じたことをひもといてみる。各自、自分の潜在意識が、なにを感じているのかがみえてくる。基本的に良い瞑想のなかでみるビジョンは片付いたこと、ケリがついたこと。つまり整理してしまった出来事、経験、考えがよぎるもの。もし、まだ未解決のエネルギーが浮上するようだと、まだ内観が不足していたり、自己浄化が不足していたりする。下弦に瞑想をして進度を測ると、自分の瞑想の学びの進み具合がわかってとてもよい目安になるだろう。

瞑想の流れがとてもよいものになりそうだったので、まったく新しいバランシングのワークを実践してみた。半年後に素晴らしい結果がでることを期待しよう。

七転び八起き

同じ場所で同じタイミングで7回も転んだら、さすがに次は十分に気をつけるので転ばなくなる。ものすごく用心深い、疑い深い、神経質、という性質の背後には過去に体験した痛い思いが隠れていることが多い。過去に失敗した局面に遭遇すると、ふと「転んでいる自分の姿が脳裏によぎる」もの。いわゆる悪い予感というやつ。この予感は本人だけのものなので、周囲に同意を求めてはいけない。周囲がいい予感を感じていて、自分だけ悪い予感を感じる。団体行動のなかでは、わがままを出しにくい。だが、できるだけ悪い予感は信じたほうがいいと思う。大きなトラブルの兆しなのかもしれない。8回目は転びたくない、という魂の警告なのかもしれないから。
※過去の体験=前世の記憶

今日の徒然:道新になにが?

ここ数日の道新の記事には目をみはるものが多い。ガレキ処理に慎重姿勢の学識者のコラムがトップに載ったり、泊原発に反対は6割というアンケートの結果を載せたりしている。某知事の動きにまっこうから反対するかのような情報掲載だ。全国的にはこうした読者目線の記事を報じるメディアは少ないなかで、かなり踏み込んでいるようにも思えるが、実は淡々と当たり前のことを報じているだけともいえる(個人的には後者だと思っているけれど)。ただ、少しでも姿勢を明らかにすると反発がくることもあり、その点で道新の立場はどうなっていくのか興味をひかれる。

特に際立っているのは低線量の被曝でも健康被害があることを明言している研究者の記事を載せたことだ。この件に関しては学識者の認識も真っ二つに分かれているし、まして政治家は否定的だ。そんな空気のなかで、道新が誰のどんな意見を取り上げるのかについて、内部的に誰かが判断をしたということだ。人事異動でもあったのかもしれないが、やりすぎると圧力がかかるから、かえって心配だ。

NHKのHさんのツイッターは地震情報など正確で速くて参考にしていたのだが、圧力があって閉鎖になってしまった。圧力をかける人はどういう視点でものを見ているのだろう。中の人達の問題もいろいろあるだろうし、一概に良い悪いではないにせよ、多くの人にとって有益なものを潰すのは良くない。だが、組織のなかの人に自由はないのだろう。

私達もけして自由ではない。いろいろなことがあって不自由を強いられている。

だが、本当は「強いられている」のではなく「強いられている幻想に踊らされている」だけだ。真実の私達の姿は「完全に自由な存在」なのだ。だからこそ、不自由を不自由と心の深いところでは感じるし、本当なら変えたいのだ。

スピリチュアルな情報の適齢期。

よくお母さんの紹介でお子さんがおみえになります。そうすると十代の若い方だったりします。いったいぜんたい、自分の魂の由来だとか、もって産まれた気質や人生の命題など、何歳ぐらいからアドバイスが可能なのか。

明確な答えがあるわけではないのですが、早ければ16歳ぐらいで大丈夫だと思います。実際には15歳の子と話したことがありますが普通、中3の子は受験で忙しいので進路が定まってからのほうがいいでしょう。

また、12歳ぐらいから自分の心と向き合うようになりますので、そういった年代の子にはお母さんから伝えていただくようにしています。お母さんにとっても、我が子の魂の個性は理解しておいたほうが子育ては楽になりますし、自分の関わり方を否定しなくて済むようになります。魂の個性は3歳ぐらから形になりはじめます。ご両親が我が子の性質を理解するという意味で速すぎるということはないので、それこそ受胎して間もなくききにくる方もいます。一般的には安定期に入ってから〜臨月まであれば産まれてくるお子さんの由来についてはお話できます(あまり早すぎると話せることが限られます)。誕生して1年ぐらいはお母さんはひたすら忙しいので、1歳以降になりましたらゆっくり鑑定して、今度の子育てについての指針は提示できます。

いよいよ具体的にあれこれ注意事項がでてくるのはやはり3〜4歳以降です。7〜8歳で精神的な成熟が始まりますので、その時期も変化のピークがあります。その次が12歳前後。16歳を過ぎるともう内面的には大人です。現実とのギャップをどう受け止めていくか、本人もだんだん難しく感じるようになります。そういう時期になったら親御さんとしても、かなり客観的な関わり方が必要になってきます。

今日の徒然:夢の話

もう関西ではサクラが開花したようですが、今日の北海道は雪。今夜は吹雪になるかもしれません。冬と春の交代劇、バトンリレーでいえばタッチでミスをしたのでしょうか。

冬場はよく雪道を走っている夢をみます。たいてい、車に乗っています。スタックしたり、雪山につっこんだり、車がひっくりかえったり。現実なら大事故です。夢ですから自分はいつもぴんぴんしています。

夢のなかに現れる「車」は、多くの場合、現実社会と自分の人生が向かっていく方向との関係性を現しています。渋滞に合うとか、事故にあう、車がひっくりかえる、などという状況は社会の状況と、自分の取り組みがかみ合っていないことを意味します。季節感のある夢、というのは「今に限る」ということなので、時がたてば自然に解決する、ということです。多くの場合、夢は理性を超越した領域で、自分の周囲に起きていることを俯瞰して見つめている冷静な意識が見せています。心をしずめて、よくよく考えてみるとほとんどの場合は理解できるようになります。

まずはどういう意味だろう、と考える思考を停止することです。いつも考える思考回路で気付けないから夢でみるのですから。まず思考する頭を空っぽにしてみます。すると、自然にそこに答えが浮上してきます。

空っぽになる、ということを難しく考えてはいけません。日本人はまじめなのですぐに「禅?」と思うのかも。ミルキーを試してください。ひとつぶ口にいれみてみて。それでも空っぽになりませんか?

体調不良の理由

外因がなければ、答えは内にある。もしかすると、「治らないほうがいい」と思っている意識が心のなかに潜んでいるのかもしれない。

表面上は「治したい」と考え、行動している。一般的な治療をうけ、自分でも日々回復に務めている。それなのに、心のどこかに「治らないほうがいい」という意識があり、それが決定的な回復につながる鍵を隠している。

であれば、「なぜ」を問いかけなければならない。自分はなぜ「回復」を願わないのか。

なぜを追求するには「完全に復調した自分」を思い描くことだ。その姿が実現した時に、いったいなにがデメリットになるのか。それをリストアップしていく。その感情と向き合ってみる。もしかするともう一人の自分の言い分がわかるかもしれない。

経営者の運気アップ

若い頃はワーカーホリックだった。望んでそうなったのだから後悔はしていない。後に身体の不調でどんなに苦しんだとしても、自ら蒔いた種でしかない。

だが、中堅となり後輩達を見守り、勤務評定をつけ、給与査定すら任せられる立場になった(役員でもない中間管理職に給与査定を任せること自体そもそも間違いだったと思うが)頃から、ワーカーホリックを見逃すわけにはいかなくなった。健康管理を優先すべし、ということを自分の部下に対しては徹底していた。ただ、自分自身はワーカーホリックの傾向は改善できず、最後にプレステのゲームを監修した時は、プログラマーと一緒に朝帰りする日々がほぼ1年続いた。朝帰りはしても定時出社だから、身体はきつかった。ただ、人生で一番体力が高まっていた時だったのでなんとか風邪もひかずに乗り越えることができた。

社員をワーカーホリックにしてはいけないし、極端な残業を強いてもいけない。

あの頃は残業はあまりにも常態化していた。締め切りを守ることは「お国のために労働奉仕は国民の義務」的な空気になってしまう。良く言えば連帯感。悪く言えば人権蹂躙。問題にならなかったのは、似た者同士の寄り合いだったからかもしれない。しかし家族経営なら許されるが、ほどほどの規模の会社になると、従業員に甘えはゆるされない。そこをしっかり見つめていかないと経営者の運気は下がる一方となる。

従業員にとって、望ましくない生活環境を職場が強いるとどうなるか。残業もそうだが、休憩をしっかり取れない、なんらかのハラスメントがあるなど精神的なストレスが多い場合も同義。人にはそれぞれ守護霊団がついていて、健康を害する要因に対して警告を発している。サッカーの試合でいえばレフェリーみたいなものだ。反則をする選手にはイエローカードが渡される。霊的な世界からみれば、人はみな平等で、経営者も労働者も同じ「ひとりの選手」でしかないので他者の健康を害するものにはどんどんイエローカードが渡される。

従業員の健康(肉体的、精神的両面において)を考慮しないと、経営者の運気はどんどん下がる。経営者の運気=会社の運気だ。

社員が皆、元気であれば会社も必ず元気になる。規模によって会社の運気の変動は1年で結果がでたり、時に10年かかってゆっくり変化することもある。100人規模を超えるあたりから3年〜5年というスパンで業績に運気ははねかえってくる。この1〜2年の業績は数年さかのぼった時期の社員の健康状態が反映している結果かもしれない。もし、そこに要因を見いだせれば改善の余地はある。特に問題がないのなら景気の影響かもしれない。経営方針の誤りかもしれない。今を起点にして計画を練り直せばよい。

大きな変革が無理でも、ちょっとした福利厚生を実現するだけでも運気はよくなる。この時期花粉症の人にはマスクを支給したり、コーヒーの粉をおいしいブランドに変えるとか。社長はポケットマネーを有効利用してほしい。

地道に。

いっきに好転させる方法というのは、ないのではないかなぁ。
やはり地道に積み重ねていくことにより、安定感にまさるものはない、と思います。

特に瞑想に関しては、ひっそりと地道になさっている方は、年数を重ねていくと歴然と結果を出していかれるなぁと実感します。地道さを重ねるだけの動機が必要になりますが、それぞれの人生の意味や命題があるわけですから、なんでも瞑想で解決するとは思いません。それはそれ、でも瞑想してる人の人生の流れは、なにか違ってくることは間違いないと思います。そのことを証明するのはタイムマシンを作るより難しいでしょうけれど…。

お金を落とすと運がつく

財布をおとす、現金を失う。普通は「不運」と考えます。

が、それがきっかけになって運気が上向くこともよくあります。そこのところが気づきになって、運気停滞の理由が見えてくることも…

ネガティブな結果は、実は隠された宝物のありかを示す地図なのかもしれません。