祈り

今年もたくさんの子どもたちに出会いました。
彼らは大人が見失ってしまったもの、忘れてしまったもの、時に置き去りにしてしまったものを
その清らかな瞳の奥に、しっかりと持っています。
子どもたちは皆、心で語りかけてきます。
そして、たくさんの力を手渡してくれます。
彼らと心で対話する度に、しっかりがんばろうと思うのです。
彼らはじっと待っています。
大人になるのを、ではありません。
「その時」を待っているのです。
自分が活躍できるチャンスをつかみとり、そして夢をかなえるその日を、です。

でも、彼らがそのチャンスをつかむことはけして容易ではないのです。
そして夢をかなえられる日、をむかえる子はおそらくとても少ない。
これが現実。
でも、子どもたちは皆、夢をかたってきます。
その心を感じる度に、大人のはしくれとしては、
なんとかお手伝いをしたいと思うのです。

子どもたちの夢は神様の夢なのです。
だから、それをかなえてあげようとして応援したり
手つだったりすることは、神様の意思にかなうことだと思います。

目の前にいる子どもたちが、目の前に子どもがいない人は世の中の子どもたちが、
なにを願っているのか、心の声に耳をかたむけてください。
彼らの心の声に共鳴できる「こころ」を取り戻してください。
そうすればきっと未来がひらけます。
あなただけの未来だけでなく、
家族や、地域の人たちや、国家や、世界の為にも素敵な未来が。
きっとみえてきます。

こころの声をきいてください。

あなたの内なるVoiceをきいてください。
しずかに。聖なる歌声をききながら。今夜はあなただけのミサに出席してください。

実現する為に必要なこと。

調和の音色が集う人々の為に奏でられる為に必要なこと・・・を考えていました。それをリアルにこの世で自分の命あるうちに実現するにはなにが必要なのか、を。霊的な世界では以前、修行をしていた頃にいろいろな場所に慰霊に出向き、そこで音色を奏でていました。ある時は沖縄で。ある時な隠れキリシタンが殉死した慰霊碑の前で。ある時は強制労働で命を落とした名もなき朝鮮の人たちの慰霊碑の前で。特に思いでに残っているのは、キリシタンの慰霊碑に出向いた時。ずいぶん山奥にあるので、登山の装備をして出向いた。雨が降った翌日で、道はぬかるんでいた。道中、何人かの修験者が先導してくれる。登山者の姿をした人たちにも何組かすれ違う。皆、肉体はもっておらず純粋な魂のエネルギーで存在していたが、なぜか皆生き生きとして、本当にそこにいて呼吸をしているかのようにすら思われた。慰霊碑の前に到着すると、たくさんの白衣をきた人たちが集まってきた。十字架の前にみな整列し、祈りを捧げ始める。瞑想していると天から音色が降ってくる。荘厳なオルガンの音色のようでもあり、天使達のコーラスのようでもある「この世にはない」美しい光のハーモニーである。清らかな魂達が集うミサは延々と続いた。ふと瞑想から戻ってくると、周囲を風もないのになにかが吹き渡り、あたりの木々が揺れた。たくさんの魂たちが皆、笑顔になって天にかえっていった。そしてたった一人、山を降りて帰ってきた。

慰霊碑の前にいくと、いつもそうなのだが必ず音色が降ってくる。あれは自分が奏でているのか、天にある自分の魂の本質が天使たちと共演しているのか、いずれとも判然としない。だが、わかっているのは…その音色を実際にこの世にもたらすことを自分は強く願っているし、それが「できる」と確信していることだ。ただ、そこに「祈る人たち」がいなければならない。

多くの人の祈る気持ちが集まれば音色は降ってくる。それを実際に演奏して奏でることが自分には必ずできる。

でも、それはどんな祈りであればいいのだろうか。そのことを考えていく必要があるのだろう。

自分にとって祈りとともに奏でられる音色は、天使たちと一体になり、この世に調和と光をもたらすものでなければならないものであるし、天の音色にはすべてを癒し、満たしていく光が宿っていると思う。それは十字架の前でくりひろげられた天使たちのミサに参加して強く感じたことだ。キリストが自分の頭上に現れた時も、なにかわからないが自分に強い意思が授けられたように感じたものだった。

僕は自分がどこに向かっていこうとしているのかを知っているし確信している。この確信は宇宙が滅びようともけしてゆらがないものだ。だが、私や私たちには祈りがたりない。祈りを忘れた魂は、羽のない天使のようである。あるがままでいて、それでいてこの世のどこにも居場所がない。光も届かないだろう。祈ることからはじめようじゃないか。それが光にふれるシンプルで、そしてたった一つの道なんじゃないか。その祈りがあつまればこの集いは必ず実現するのだと思う。