レイキとレイキではないエネルギーのはざまで

これはもしかすると以前、どこかで書いたのかもしれませんが、あまりきちんと意識して書いたことはないような気がします。

私が「レイキ」と、「それ以外のエネルギー」をどう使い分けたり感じ分けたりしているのか、についてです。これを説明するのはとても難しくて、中途半端に書いても誤解を招くばかりだし、意図的に伏せてきたともいえます。でも、それっぽいことを書いてみたり、レイキではないエネルギーワークをやってきたりしているので、なんとなく気づいている人は気づいているだろうし、そんなの最初からそうだと思っていたという人も多分いらっしゃるでしょう。

西暦2000年にレイキを学んだ時、これは素晴らしいものだと実感しましたが、それ以前から長年のさまざまな修行と神秘体験を通して感じていたエネルギーと比較している自分がいて、その違いはなんだろうとずっと研究してきました。最近になってやっとある程度の答えが出せるようになり、ここまで理解が深まれば教えたり伝えたりしていくうえで支障はないかなと思えるようになりました。ただ、そろそろレイキとそうでないものを分けて扱っていかないと、学んでいる皆さんに混乱を与えたり、誤解を招くおそれも出てきましたので、少しずつですが整理していきたいと思うようになりました。

私にとってはレイキはとても有効な手段でした。それそれによって素晴らしく心身が安定し、健康を回復しました。それは「めざましく変化した」といえるほど劇的でしたし、嬉しく有り難い体験でした。でも、私にとってレイキは「幾つもあるうちのひとつ」の手段でしかなく、これだけですべて満たされるということはありませんでした。

元々、私は霊的な感性があまりに鋭くて、森のなかにはいれば精霊の存在がわかるし自由に会話もできていました。人の背後にいる見えない存在たちの気配もいつも感じていましたし、自分が死んでいることに気づいていない方達ともたくさん交信をして、この地上のエネルギー世界をたくさん味わってきたのですが、そういった感受性故にとにかく疲れれていました。普通に生きることができないレベルまで神経を消耗しつつあったんです。それで厳しい修行を重ねていくなかで耐性を身につけました。その時に、たくさんの神秘的な技法(印やマントラ)を使ったんです。私は修験道で学びましたので、そこには古来からの秘技がたくさん伝えられているんです。それをひとつひとつ実践しながら自分に必要なものを選り分け、使っていくうちになんとか「自分と外側の世界」の境界線を確立することができました。そこからやっと宇宙とつながるというか、光の世界とつながるというところにフォーカスできるようになっていくわけです。その頃からアカシックレコードにアクセスできるようになりました。また高次元の意識(たとえば大天使たち)ともつながれるようになり、この世界の真理や、私たちの魂の由来について、神々の世界について学ぶようになりました。その探求のなかで、魂の輪廻の由来について無数の情報を受け取れるようになっていったわけです。

ですので、私のなかでは世間一般にいわれる「霊感」という感受性と、魂の輪廻の由来をひもとくアカシックリーディングに代表されるような「スピリチュアル」な感受性は、別々のものなんです。この段階ではっきりさせておきたいのですが、どちらの感受性もレイキでは活性化しません。根本的にレイキという技法がもたらす作用だけでは、霊感も、スピリチュアルな感受性も開花はしません。それぞれ相当な訓練も必須ですし、持ってうまれた資質も要因になります。まったく違う次元のものです。

私の定義では「レイキ」は心身をすみやかに浄化する為の本当に素晴らしいツールで、それ以上でも以下でもない。

霊的な世界と交信する人は、その為に自分のまわりに結界をつくることを学ばざるを得ませんし、霊感が弱ったり疲労した時に、それを回復する為のパワースポットを知らねばなりませんし、実際にそこに行かなければなりません。

アカシックレコードにアクセスしたり大天使と交信する人は、その為に必要なあらゆる環境を作らねばならないし、その感覚を維持する為に必要なあらゆる技術を磨かなければなりません。

それで私は霊的な感覚を守り、磨く為にパワーストーンをもっぱら用いることにしました。また、アカシックレコードにつながり大天使と交信する感覚を守り、維持する為に「光の技法」を学びました。そしてこれらを全般的に維持する為にレイキをほぼ完璧に使いこなしていると自分では思っています。私には必要なものすべてが必要だったのです。そして必要なものがひととおり私の手元に集まってきた、というより「与えていただけた」のです。どれかひとつ欠けても、今の私の能力を維持することはできなかったでしょう。

自動車がタイヤ、エンジン、ボディ、電子機器などの集合体であるように、私にもたくさんの技術が必要です。レイキは車でいえばタイヤとエンジンのようなものかもしれません。これがないとなんにもできなかったかもしれません。それぐらい素晴らしく有効なツールです。これからも磨き、使い続けていくでしょう。でも、ナビも必要だし、明るいライトやサンルーフも必要なんです。それらはレイキには含まれていない、けれど私には必要不可欠な技術なんです。

親には親の、子には子の葛藤がある

春休みで実家に帰省中の大学生が親御さんに連れられてご来訪になられた。親元を離れて一人暮らしをはじめるうちに、少しずつ人生について深く考えるようになったのだという。そして漠然とした不安にもかられると。

その子にはこれからの20年がどんな人生になるかを説明し、なぜそういう流れが用意されていたのか、なにを心がければよいのかを説明してあげた。その子にとっての人生の調和とはなにかをできるだけ具体的な例を取り上げたり、注意すべき項目を箇条書きにしたりして1時間しっかりレクチャーしてあげられたと思う。おそらくもうこの子は少なくともこれからの10年はぶれることなく生きていけるだろう。そこから先、また迷ったりすることがあれば…その時はまだ再会することになるのかもしれない。あるいは就活の時期にまた連絡があるかもしれない。

帰り際、親御さんともちょっと立ち話をした。いろいろご不安もあったようだけれど、なんの心配もないということを強調しておいたので、だいぶ安心していただけたのではないだろうか。

親は親で子を心配し続けるものだ。そして子は子でそんな親の気持ちをどう受け止めていいのか迷うもの。いずれわかることではあるけれど、わかってしまえば楽になれることもあるから。そこをお伝えできた時はよかったと思う。
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20年分も未来を透視してどうなの?はずれたりしないの?とご心配くださる方もいらっしゃるかもしれないけれど。こういう情報をお伝えすることについて私のなかにはなんの不安も怖れもない。だってこの力は私のものではなく、神様の愛だから。みんな愛されている。ただそれだけのことだから。お伝えできてよかったと心から思うし、ご相談者の未来が充実するように、共に見守っていきたいと思う。ただそれだけです。

癒えるには時がある

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長くヒーリングとカウンセリングを行っていて、最近では過去数十年にも渡る心の抑圧を解放するような取り組みができるようになってきました。そこに至るには、長い時間のカウンセリングのみならず、レイキの技法を用いながら独自のアプローチでヒーリングを行い、ご本人にも自主的にいろいろな取組みをしてもらうことで、最終的には自然に癒えていきます。

心は目にみえないものですが、感覚を磨いてくると手にとるようにわかるようになります。が、癒しには段階がありますのでけして急かすことはできない。だから、一律これこれこういう技法で何回のヒーリング(あるいはカウンセリング)で、過去のトラウマは確実に治りますよ、という言い方はけしてできません。その人の内面から自然に解放が起きていくものなので、その時々のタイミングにあわせた最適な取り組み方を提供していくだけです。

こういう自分の仕事をふと「樹医」さんのようだな、と感じることがあります。弱った樹木の土壌や環境を変えたりしながら自然に回復するのを何年もかけて待つように、人の人生には大きな流れがあり、そこから枝葉末節に細かく分岐していきます。でも大局を見ていないと、癒える力をうまく引き出すことができないことでしょう。

これまでたくさんの癒しの技法を垣間見たり学んでみたりしてきました。がいずれも断片的なもので、大局的にその人のあり方を根っこから治癒させる方向付けをもったセラピーに出会ったことがありません。おそらく、ひとつの技術だけでは無理なのでしょう。幾つものアプローチと技術とを駆使しながら、あとはタイミングを見計らってヒーリングを行ったりしていくと良い結果が自ずと導きだされます。

タイミングは宇宙との共鳴もありますので暦を星の運行の影響も考えながら読み取るようにしています。そうしていくなかで、人生では起こるべくして様々な出来事があるのですが、それらひとつひとつの答えを導きだしながら、過去の癒しにも取り組んでいく。

人生は過去からの流れが未来につながっていきます。未来をより上向いた方向にシフトさせたい場合は、過去からの悪影響を正すことも必要なんです。でも、人生には運命的に定められたイベント(出来事)も用意されているので、それを変えることはできない。けれど最善の準備をすることはできます。なにが起きるとしても最善であれば、きっと良い結果がでると思います。過去をリセットできれば、かなり人生の流れは上向いていくと思います。

私達は、日々多くの試練に向き合わざるを得ません。試練のない人生はないことでしょう。でも、向き合うべき試練と、向き合っても無意味なものもあります。過去の影響が、よく無駄な試練を引き寄せることがあるので、余計な枝葉は切り落としてしまったほうがよい。それだけでも前に進む速度が加速したりするものです。

皆さんに最善の癒しがもたらされますように、私なりに積み上げた技術と経験をすべて活かしてお手伝いさせていただければと願っています。

看取りに際して

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「看取り」を通して受け取れる糧はすごく大きいと思います。人の命は重いですから。人生を終える時、魂は数十年の人生の決算をむかえます。地上を離脱する本人にとっても、大きな節目であることは間違いないのですが、看取る側にとっても大切な時です。

私はふりかえってみると、あの世にかえった魂との関わりは多数あったし、看取りに関わる機会も人よりは多いほうだったような気がします。そして、今では看取りに関連する様々なご相談をお受けするようになりました。もとより、あの世に帰った魂との交信役としてカウンセリングの世界に足を踏み入れたわけです。でも、実際に蓋をあけてみると、ご相談者は、看取りを終えた方よりも、これから看取るという方や、まさに看取りの最中の人達が多いのです。命の炎が燃え尽きた後は新しい時が流れ始めるのですが、看取りの間というのは時間の流れが止まります。どうしてこうなってしまったのかという悔いや、受け止めきれない感情があふれ、自分を保つことが難しくなるものです。

いままで看取りに関連するご相談のなかで、多くの「昏睡状態」にある患者さんの魂と交信をさせていただきました。まだ肉体は呼吸をしているのだけれど、ほとんど意識がない、脳波も振れていないという状態の方とでもコンタクトはできます。肉体から離脱しているわけではないのだけれど、かといって体を通して意思を表示することはない状態であっても、魂はその状況のなかでなにかを感じたり考えたりしていることもあります。そんな状況でご親族ができることはすごく限られていますが、横たわっている人が「本当はどういう状態なのか」がわかると、心の整理もつきやすいようで、今できることはなんだろうか、と考えられるようになります。

私たちは生きていれば必ず近しい人達を順番に看取っていかなければなりません。そんな節目に迷った際には、どうぞご相談にいらしてください。

生まれ持った喪失感ありきの人生について

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私たちは、根本的な「喪失感」を持って産まれてくるので、欠落したその「なにか」を一生かけて探し求めているといってもいいでしょう。ただ、その「なにか」は寿命が尽きた時におのずと取り戻すことができるものだと思います。私も、実際にはまだ死んではいないのだけれど、命の炎が燃え尽きた直後に起きる体験については、一度リアルにそれを味わっています。だから死に対する心構えができてしまっているようなところがあり、だからこそ生きてこそとも思うようになりました。それは言葉にするとあまりに貧弱でまったく違うニュアンスになるのですが、それでもわりと知られている言葉で「至高体験」と表記しましょうか。

至高体験といっても、主観的なものであって、自分でそう思い込んでいるだけという可能性だってありますけれど。今のところ確信はしています。それ以上の幸福感や完全に満たされている感覚は、この世には存在しないだろうという体験です。それはあまりにも素晴らしすぎて、そしてあまりにも完璧すぎて、私はもう一生分の光をいただきました。それを味わう前は、そんなことでもなければ生きている甲斐もない、などと嘆くような気持ちがありましたが、その直後からはもう生きている間は結構です、という気持ちになり、それが十数年続いていますので、おそらく私はもうそんな体験はせずともこの人生は精神的には喪失感に悩まされることはなくて済むと思っています。どんなに辛いことがあっても、苦しくても、私の意識のなかに「光ありき」という感覚がすっかり定着してしまっていて、闇に落ちることがないんです。
これは非常にスピリチュアルな体験に違いありません。その後は霊感がさらに研ぎ澄まされてゆきましたし、ゆらぎもなくなりました。様々な情報をキャッチする感受性も安定して、霊的な能力については十分に覚醒しきった感がありました。が…。

その反動で、体調を崩しやすくなりました。風邪をひいたり、お腹をこわしたり、自律神経の不安定さから集中力を失って、何日も仕事ができない状況にもなりました。長年、さまざまな薬を服用していた為、解毒も必要になり、肉体レベルの浄化が休むことなく連日のように起き続けました。数年間はそんな状態が続き、一時は全身にひどいアトピーがでたこともあります。

いかに精神的に満たされているといっても、私たちの肉体は、日々の休息と充電が必要です。神経回路も肉体に属しているのですから、肉体が活性化しなければ、いくら精神を鍛え、霊的な回路が安定したところで、現実は前進することはできません。それからは、できるだけ体を休めることや、体(五感)を喜ばせる為の充電も心がけるようになりました。
霊的な至高体験は一生に一度で済むようですが、どうも肉体は一定期間毎にしっかりと高揚感を与え、充電をしつづけなければならないようです。肉体にも至高体験に近いものがあるのでしょうが、私はまだその部分では最高の体験には至っていない気がします。スカイダイビングなんかすさまじい高揚感を体験できそうで、憧れなくもないのですが。小さな飛行機に乗って、また発作が起きるのも怖い(笑)。深い海も恐怖心があるので潜るほうもだめ。お酒もあまり飲めないし。あ、あとは音楽がありましたね。素晴らしいステージが体験できれば、相当高揚感を味わえるのでしょう。ただ、それはそこにいたるまでの準備と努力も必要になりそうで容易ではありません。それに、そんなにノリノリのステージは私の持ち場ではないですしね。というわけで、今のところは近所の温泉に出向くぐらいが手頃なところ。でも、この肉体面の充足方法については、体力のあるうちにもう少し探求していければいいなと思います。山歩きか、川下りを改めて掘り下げるのもいいかな。ただちょっと危ないこともあるのでリスクは避けたい。でもリスクがあるアクティビティって高揚感がすごいんです。だからやめられないのでしょう。

体を通して最高の至高体験というものを味わうことができれば、すべての細胞が活性化して若返ることもできそうです。五感が研ぎ澄まされ、五感と精神の調和を通して霊的な覚醒がうながされる場合もあるでしょう。まだまだ開花できるものが、私自身の肉体と五感のなかにもたくさん残っているような気がします。

神様が設計して創りあげた肉体には、無限の可能性が秘められているはず。上手に活性化できれば、精神との調和も、霊的な感性との融合も、加速させることができると思います。スピリチュアリズムだけでなく、生命科学や東洋医学、ネイティブな人達の叡智と融合していくことで、人間の霊的な本質は、この地上でもっと素晴らしい発展を遂げることができるはずだと私は信じています。人間がどんなふうに変化を遂げていくのか、これからの未来が本当に楽しみ。自分の命があるうちはできるだけ見届けたいし、そう遠くない来世にその後の進化を確認しに地上に降りてきたいものです。

古典から次のステップへ

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月のサイクルを感じ、自然とつながり、改めて内と外のエネルギーを感じ直しているところです。
新しいマントラがひらめき、瞑想や呼吸法のなかで使い始めています。
使いこなせるようになるまで、また年月がかかるのかもしれません。
これからまた数ヶ月は、様々な修行の期間になるような気がします。

今年は、ヒーリングを改めて見直し、かなり技術を向上させることができました。
ここにきて、さらに次のステップにレベルを上げられないか試行錯誤をしていたところだったので、
たくさんの新しいヒントが得られはじめ、大きな手応えを感じています。

今年、トレーニングを受けた方には、劇的な変化を体験していただけたのではないか。
自分の印象ではなく、学んでくださっている皆さんからのご感想として、伝わってくるものがたくさんありました。
ただ、けしておごりではないのですが、ここまでは想定内でした。
私の思いとしては、ここから先、どこまで自分が進化できるのか。いよいよだなという気がしています。

瞑想法も、ヒーリングの技法も、今までは古典を大切にしてきました。
それは自分のエゴがでないようにする為でもありました。
音楽でいえば、モーツァルトをそのまま演奏し続けていたような感じでしょうか。
そろそろ、オリジナルの作品を演奏し始めてもよい時期なんでしょう。

いずれは独自のエネルギーワークを少しずつ始めていこうと思います。
その為の準備を、自然の聖霊達と共に始めさせていただいているところです。
(十分に独自なものを教えている、と思っている方も多いかもしれませんが、レイキに関しては、私は源流ではないのでして。そこをこれからは自分が会得した独自のエネルギーをお伝えしていこうという段階に進んでいこうと思いはじめたところです。それだけの感性が自分にはあると思います。ただ、その影響がはかりしれなくて、お伝えしてもよいのかどうなのか、長い年月悩んできましたが。十分に経験も積んできましたので、そろそろ大丈夫だろうという気がしてきました。具体的な時期は未定ですが、学んでいただける方はとても限られているので、告知するかどうかわかりません。)

夢見

悪い夢を見た、というご相談がたくさんいただくのですが、今まで鑑定してきた経験からいえば実際のところ、悪い夢というのはあまりないようです。
夢は、自分の心が見せるもので、本当に邪悪なものが近づいていたり、取り憑いていたり、などということは一般の方にはまず起きないといっていいでしょう。もし本当に悪いものが憑いているのなら夢どころではないはずですし。

それより、夢というのは自分で理解できるようになるものなのです。一番の近道は夢日記をつけること。そこから始めてみましょう。自分の心と向き合う為には、とてもよい方法です。ただ飽きっぽい人にはむかないかもしれません。なにごとも地道に取り組むことが大切です。

14回目の秋

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先月は、神様に呼ばれてあちらこちらの山や森へでかけていました。たくさんのメッセージとエネルギーを頂いてきました。まだまだ消化しきれていないのですが、これからの糧をしっかり受け取りました。ちょっと大変な役目だけれど、気負わずに淡々とやっていきましょうか。

わたしの魂は、元来がメッセンジャーでもあるけれど、シャーマンでもあるのですが、もうあまり言葉で難しい説明をするのは無理があるなぁと感じています。ブログやメルマガで、なにかすごい情報を期待している方には申し訳ないんですが、もうあまり書いたり、話したりはしないようにしようと思います。長年、この仕事をしてきましたが、神様が考えていることを説明すればするほど、宗教っぽくなってしまいます。それはまったく望んでいないことなので。

誰の人生でも等しく私たちには気づきを受け取れるチャンスで満たされています。そのことだけわかっていれば、魂を磨くことは、どこでなにをしていても可能なんです。

それぞれのあり方をただ掘り下げていけばいいのだと思います。その為のほんの小さなおせっかいを、わたしはここでこれからも続けていこうかなと思っているだけなんです。

光のサロンがここに根ざしたのは13年前の秋でした。いよいよ14年目にはいります。わたしの人生の旅はまだまだおわらない・・・。

日本人でプライドを保って生きることの難しさ

プライド(誇り)を保てないのならばハラを切ったのが日本の武士道だったようです。
魂はプライドを磨く為に存在しているともいえます。

人生はプライドを感じながら更に高めていくもの。ただ、その高め方がこれまた千差万別。ご飯をつくってあげたり、なにかを指導したり、祈ったり、瞑想したり、ありとあらゆるプライドの磨き方があるものです。皆、一様でなくそれぞれのスタイルをもっていますが、向かうところはひとつ。自分を磨く、ということに尽きるようです。

プライドは磨きがかかればかかるほど、これまた傷つきやすくなります。だんだん生きることが難しくなるのです。他人にプライドを折られることに耐えられないこともあります。その時、魂は撤退を余儀なくされるのです。撤退といっても実際の手段もこれまた千差万別です。関係性を遠ざける程度なら軽いほうで、精神的に閉じこもってしまったり、肉体的に存在を消そうとすることもあります。

時代が時代ならもうこれ以上いかようにもプライドを保ちようがない場合に、そこで人生を閉じる。そういう選択を昔の日本人は実際に行っていたのです。ただそれは一部の階級の人に限られたことで、一般庶民にはそれも容易ではなかった。

日本という国で過去をいきた魂の多くは、けして上位の階級ではなかったのでプライドを保つことは難しかったことでしょう。それを保つ為の選択がある、という考え方を持つこともなかったでしょう。

なんにせよ、私たちがこの地上で前進し続ける為のエンジンは、プライドを磨き続けられるという希望なのです。それが断たれた時に、私たちは前進できなくなってしまいます。その時になにを選択するのか、これはとても難しいことです。この時代、私たちはかなり混沌とした社会性のなかで生かされていて、望まないとしても一人ではないのですから。プライドの高い魂は自分の選択に他人を巻き込むことをよしとしない傾向が強いですから。希望を絶たれるとどうしようもなくなる場合が多いと思います。こういう煮詰まり方をするのは日本人の特性で、他の国家、民族にはあまりみられない傾向です。

人生は日々ま〜るくなる為の修行なのか

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人生という修行のスタイルは、個々の魂においてかなり違います。
多くの人が「人間関係」のなかでもまれ、そして磨かれていきます。

でも、ある人達は人間関係のなかで葛藤したり、苦しんだりということを通して学ぶ方向性を持たずに生まれてきています。こういうタイプの魂は、人と接することでけして悩んだりしないのですね。悩むことはあっても深くひきずることはない。そうはいっても現実にはいろいろな問題が日々浮上するわけですけれども、そこにとらわれていると、ただひたすら虚しくなる…。自分はなにをやっているのだろう、と感じる傾向が強いのです。

一方で、大多数の人は、人間関係のなかでおおいにもまれ、翻弄されながら、カドがとれていくものです。魂はカドがとれていくほど丸みをおびて、しだいに美しく輝きを放つようになります。カドがあってギラギラしているのはまだまだなのかもしれません。