ヒーラーと出会うということ

みずからの未熟さを認める、ということは、時にとても大切だと思う。
心がすごく疲れている時はえてして、そんな自分を認めることができないでいるか、認めることすらも許していないか。
人生は努力も忍耐も必要かもしれない。が、時に自分を甘やかしたり癒したりする必要もある。

自分のこころを他人にすっかり委ねてみるのは案外勇気がいる。
みずからの未熟さを認めることができたとして、そのことを誰かに受け止めてもらえるかどうか。
そこまで他人を信じて自分そのものを委ねられたら、かなり楽になれるのではないだろうか。
委ねる側には勇気や思い切りが必要になるだろう。
受け止める側にはスキルと魂の度量が求められるだろう。
相性も大切でしょう。

いい関係を築けるヒーラー(癒し手)と出会うのは簡単ではないかもしれません・・・

自分を信じること

時々、痛感する。もっと自分を信じようよ・・・と。若いうちならまだしも、この年になると意外なところで自分が歩いてきた航跡を振り返る機会がおとずれる。特に僕のように人生前半とその後でまったく違う仕事をしていると、尚更だ。

そんなおおげさなことでなくともいい。書類をきちんと整理してあったかどうか、とか。過去の自分をもっと信じようと思うことがよくある。探していた書類なんかが見つからない時に、整理しなかった過去の自分を呪うわけだが、整理していなかったのではなく「整理すべき書類なんて存在しなかった」という勘違いだったりすることがある。探しても見つからないわけだ。思い込みは怖い。自分を信じられないのなら問題はないだろう。もし他人を信じられないとしたら、お互いにただ気まずい思いをするだけだ。まず自分で練習しようよ、と思う。信じる練習を。そのほうが気持はポジティブでいられる。

情報の取り扱い。

情報は所詮、情報でしかなくて、人生を変えるのはその人の生きる力です。情報をどんなに受け取っても力にはなりません。もし、情報が過ぎてかえって生きる力を奪うのなら、そのような情報は与えられるべきではないのです。過ぎれば毒にもなる。なにごともほどほどがよいのです。

情報が怖いのは、それ自体は時間の流れにさからって私たちの概念を固定化してしまうことです。固定化した概念は記憶にパターンとして残ります。更にあたらしいパターンが繰り返しインプットされて新陳代謝が活発であればパターンも多様化し、選択の幅もひろがるでしょうし精神の自由は奪われないかもしれません。でも、体力気力が低下していると新しい情報のパターンを広げることが難しくなり、固定化された概念にいつまでもとらわれてしまうことになりかねません。

情報を受取ることに対する免疫ができれば問題はさほど大きくならないのでしょう。免疫をつけることもひとつのトレーニングなのかもしれませんが、そういう余裕を人生で持てる人とそうでない人がありますから、情報を提供する時はよほど慎重な判断が求められます。受け取るほうもリスクですが、与えるほうは倍のリスクを背負います。どんなに愛があっても崇高な行いであっても結果がNGなら罪は罪です。

金子みすず

ここ数日、以前、ご縁のあった人達の名前をあいついで見かける。さほど深いつながりではなかった人達だけれど、皆個性的で光かがやいていた。ずっと昔に縁が遠のいたきりの人もいれば、今でも人を介して近しい人もある。その人達の名前を、あるメディア上で、あるいは知人からのメールでそれぞれに知ったここ数日だった。詳細は言うまい。ひとつはとても残念なお知らせだった。もうひとつも、とても悲しいお知らせだった。かろうじてもうひとつは、祝福すべきお知らせだったことは幸い。

人生はさまざまである。でも、この人達はこれまでも、そしてこれからもきっと多くの人にたくさんの影響を与え続けるだろう。そしてその人達の名前は歴史の記録のなかにけして埋もれてしまうことはなく、永遠に刻まれていくことは間違いない。大きな航跡をえがいて輝く存在感をはなつ生き方をもつ人達。

そんな人達の生き様をみるにつけ、人の人生には本当にたくさんの可能性があることを改めて実感する。ものの大小は重要ではない。発展がすべてなのだと思う。人と比べないで、自分らしい歩みを止めないことだ。

みんな、たまには「金子みすず」をじっくり読もうよ。おいしいお茶の香りでも楽しみながら・・・。

アニマルメディスン

先月の「魂の学校」でアニマルエッセンスの作り方を指導した。アニマルメディスンはとても効果的だ。ダイレクトだしすごくわかりやすい。ひとつひとつの命には一番調和するアニマルメディスンが存在する。それを感じる呼吸法を実践指導することがあるが、自分の体がどんな性質を宿しているか非常に明確に浮上するので、肉体との調和を学ぶにはとても効果的だと思う。北海道の動物でメディスンカードを作ったらきっと素敵なものができそうだ。

過去を思い、未来を想う

日本にも津波が押し寄せた地球の裏側の大地震で、NASAによれば地球の地軸や自転の速度がわずかに変化したのだそうです。地球も長い年月をかけて確実に変化していくことは、過去の歴史を振り返っても間違いのない流れなのでしょう。札幌近郊に財政破綻で有名になってしまった小さな市がありますが、中心部に山があります。夏場、登ってみると道端にたくさん貝の化石が落ちています。そこが昔、海だったということです。反対に、今、海の底に沈んでいる大陸に、遠い昔にいったいどんな文明が栄えたのかと空想してみるのも時に楽しいものです。さて、私たちの時代は未来人が思い出してくれるほど伝説のような素晴らしい栄えある文明にたどりつけるのでしょうか・・・。

今日の徒然

この頃、パワー不足である。自分ではなく、パソコンの話し。仕事をもっと効率よく進めるには日々リセットが必要だが簡単にスリープさせられるのでついそのまま翌日も使うことになる。が、人間の神経と同じくパソコンも完全にシャットダウンしてから再起動しなければ、様々な記憶が積み重ねられていきメモリーが圧迫され、動きが緩慢になったかと思えばシステムが破綻し、あり得ないミスをする。人間の精神とよくにている。うまく調整して使っていても、人間がいらついていると簡単にフリーズしたりもする。精密な電子回路が動いているので、なにかの拍子にシールドが弱くなって精神波動にふりまわされてトラブルが起きるのだろう。

パソコンがそうであるように、人間の精神もしっかりシャットダウンして再起動することが大切だ。この世を忘れ、別な時空に旅たつ。そんな時間を大切にしたほうがいいのだろう。

この頃、どうしてもこうも人はわかりあえないものなのか、と痛感する。お互いを必要としあっていて、求めあっていて、引きつけあっていながら、なぜか傷つけ合ってしまう。
傷つけあうのは、恐れがあるからだろう。恐れを宿した時、心はイバラのようにすさんでいく。すさんだ心は人の心を傷つける。ではなぜ私たちは恐れるのか。それは終わりを恐れているからではないか。失うこと。得られなくなること。満たされなくなること。断ち切られること。そこに苦悩を感じるから恐れる。苦しみを望む者はいない。苦しまないことを必ず望んでいる。渇望しているといっていい。だが現実にはそれは無駄なあがきである。私たちは必ずすべてを断ち切られ、失う宿命だからである。だからこそ、恐れるし、とらわれる。そこに苦悩が生まれる。そして執着がはじまる。今あるものを守ろうとするし、そこでなんとか満たされていると思いこもうとする。それ以上、望まないように工夫をする。小さく呼吸をして細く、そしてできるだけ長く生き延びようとする。それすらもかなわず、またしても煩悩の渦にとらわれ、おぼれ、あえぎ、もがき、最後は神仏をすがる。

なぜ私たちは失う宿命なのか。この問いに答えはない。なぜなら、私たちはなにも得ておらず、なにも失わないから。それなのに私たちは恐れている。最初から得ていないものを失わないように、執着をし、とらわれている。

この命題を理解し、うけいれていくことは容易ではないかもしれない。でもすべての魂はそこを目指している。だから道を求め、精進していくより他はない。大地と調和して存在しているほんのわずかな種族をのぞいては…。私たちは皆、学びの過程にあり、その学びは「真理」に到達するまで終わることはないだろう。

小さなつぶやき。

昨年あたりから、不動産の鑑定が本格的にはじまり、法人からの相談も増加。財運鑑定などは風水の応用なので、これはリアルに結果がでます。同時に潜在的に運勢鑑定の能力をもった人も現れてきたのでトレーニングの方法を体系化していきたい。方位が鑑定できるようになれば土地とそこに住み、活動する人の運気が読めるようになる。財運や健康もさることながら恋愛や家庭運もダイナミックに向上させる可能性が飛躍的に高まる。

これまではスピリチュアルな分野にかなり比重を割いていたが、ここ数年は不妊治療で悩む人達の相談依頼があいつぎ、たくさんの子宝を授かることができた。これからは財運などの運気アップの分野で結果をどんどんだして、リアルでダイナミックな運勢鑑定の技法を確立させて、トレーニングメニューに加えていくのが目標です。

新しいことに取り組むと、なにかができなくなる。でもこれまでのご依頼をお断りするのではなく、信頼できるネットワークをつくって行き場のない人を許容することなく、応援していただいた皆さんの便宜をパーフェクトに図りつつ、私自身は更に新しい分野を開拓していく。そんなマニフェストをしっかりと携えて2010年、ますますの飛躍の1年に絶対にしてやるぞ。

と、心のなかで小さくつぶやいた2010年、最初の新月でした。

懺悔すること。

許すことがどんなに大切なことかを考えた日でした。裁くなかれ、とはよく言われることです。そんなつもりがなくても結果的に裁いてしまっていることはあるかもしれない。人は人を裁いてはいけない、というのは霊的な世界では完全な法があり秩序があり、私たちのエゴを手放してすべて委ねていくだけで、罪は裁かれ業は因果応報として背負わされるからです。

でも許しがたいと思うこと、感じることは日々あります。エゴといえばエゴなのかもしれません。でもエゴのない人間は存在しませんから、私たちはどこかで知らず知らずのうちに、結局は裁いてしまうのでしょう。それは多かれ少なかれ罪になります。そんな自分を許せるかどうか、罪深き自分を天の光にむかって懺悔できるのかどうか。心のうちでそれぞれが行うべきことではありますが、今日はおおいにそのことを考えてしまいました。そして自分がどんな業火に焼かれるかもしれない、ということを覚悟もしました。

祈り

今年もたくさんの子どもたちに出会いました。
彼らは大人が見失ってしまったもの、忘れてしまったもの、時に置き去りにしてしまったものを
その清らかな瞳の奥に、しっかりと持っています。
子どもたちは皆、心で語りかけてきます。
そして、たくさんの力を手渡してくれます。
彼らと心で対話する度に、しっかりがんばろうと思うのです。
彼らはじっと待っています。
大人になるのを、ではありません。
「その時」を待っているのです。
自分が活躍できるチャンスをつかみとり、そして夢をかなえるその日を、です。

でも、彼らがそのチャンスをつかむことはけして容易ではないのです。
そして夢をかなえられる日、をむかえる子はおそらくとても少ない。
これが現実。
でも、子どもたちは皆、夢をかたってきます。
その心を感じる度に、大人のはしくれとしては、
なんとかお手伝いをしたいと思うのです。

子どもたちの夢は神様の夢なのです。
だから、それをかなえてあげようとして応援したり
手つだったりすることは、神様の意思にかなうことだと思います。

目の前にいる子どもたちが、目の前に子どもがいない人は世の中の子どもたちが、
なにを願っているのか、心の声に耳をかたむけてください。
彼らの心の声に共鳴できる「こころ」を取り戻してください。
そうすればきっと未来がひらけます。
あなただけの未来だけでなく、
家族や、地域の人たちや、国家や、世界の為にも素敵な未来が。
きっとみえてきます。

こころの声をきいてください。

あなたの内なるVoiceをきいてください。
しずかに。聖なる歌声をききながら。今夜はあなただけのミサに出席してください。