なんとなく、を信じよう

特に困ったことがあるわけでもなく、なにか悩みがあるわけでもない。
そういう場合、予約を申込むことに躊躇するかたもいらっしゃると思います。でも「なんとなく」という動機はとても大切にしてほしいです。それがきっかけで、すごく大切なアドバイスを受け取る方も多いです。

ただ、ひとつだけ約束をしてください。
「なんとなくなんですけど、申し込んでいいですか?」という質問メールは送らないように。

ご自分で決断なさってお申込みいただければお断りすることはありません。その「なんとなく…」をあなたの心につくりだしているのは、きっとあなたの魂のガイド達なのです。でも自分で決められないのなら違うと思います。

霊能者の取り扱い説明書

今は電話での予約対応をしていません。以前はパソコンを使えない、という方の為に電話対応をしていました。今は携帯を持っていない人はいないので、少しご不便かもしれませんが100%メールで予約日時の確認をとらせていただいています。

ご不便をおかけしていますが、カウンセリングの合間は、かなりしっかりと休憩(=瞑想)をしないと次のセッションに差し支えます。瞑想中は電話にはでられません。それでも以前は無理をして電話を取っていたので、ろくに休憩をとれない日が多かったのです。どなたもメールをお使いになれるような時代になり、とても助かっています。

実は、電話での予約をあまりお受けしないほうがいいなと思う本当の理由は、予約のやりとりをしている時点で、だいたいのことはわかってしまうのです。なるべく見ないように、感じとらないようにしています。が、やはり答えが見えてしまうことがあります。どなたも最初は勝手がわからないと思うので、仕方がないのです。自分の困っている状況をかいつまんでお話になられる方がよくあるのです。どんなご依頼でもご予約が確定した後はお断りしませんから、ご相談になりたければとにかく予約をとってご来訪いただくようにしてもらいます。

そこは霊能者の辛い性ですかね。問われると「答え」がぽんと入ってきてしまう。これをコントロールするのはとても大変です。答えを受け取らない為にしっかり緊張していないといけない。頭のなかに水道の蛇口のようなものがあって、そこがゆるんでいないかを常に確かめておく必要があるのです。うっかり緩んでいようものなら大変です。そこで質問責めにあうと、次から次へと流れこんできます…。

しかしだからといってなんでもかんでも質問されても困ります。霊能者には霊感で感じ取れることしか答えられないのですから。しかし、実際には体調のことや、現実的な問題など、あらゆるご相談があるわけです。霊的な観点からは答えようのないことでも、なんでも回答します。ときにはただ聞き役に徹することもありますし、自分が知っている知識の範疇で、あるいは体験からくる知恵をお伝えすることも実際にはとても多いです。こういう対応は若い頃には無理だったでしょうね。年をとるとそれなりにお手伝いできることが増えてくる。それはまさしく人生経験の積み重ねがあればこそ、です。ひょっとすると自分が会社員を18年やっていたのはこういう時節が来た時の為だったかもしれません。一生、最初から最後まで霊感をいかした生き方をしているのでは、今の自分はけしてなかったでしょう。

私はテレビに出ているわけでもないし、本をだしてもいません。それでも日々、それなりに忙しくさせていただいています。おかげでさまで仕事がなくてすることがない日、というのがここ数年はなくなりました。本当にありがたいことです。

最初の頃はそれは一生懸命、チラシをまいたりして告知をがんばってやっていました。じっとしていては仕事はこないので、ほうぼうに自分から出向いてたくさんの人にお会いして売り込んだものです。演奏活動をメインにしていた頃も、とにかく聴いてもらう他はなかったのでたくさんサンプルを配ったりしていました。でも、こうやって待っていても多くのご依頼をいただけるようになると、考えることが以前とはまったく違う視点になってきます。それは、いったいどうすれば「自分のもっている霊力」を日々お会いする人達の為に、もっと有意義にいかしてもらえるのだろうか。そういうことを真剣に考えるようになりました。これは「霊能者の取り扱い説明書」が必要だな、と思います。こういうことは霊感をもつ人に相談したほうがよい、でもこういうことはしかるべきところに出向くべきだ、などなど。一般論として多くの人に知っておいてもらいたいことがだいぶ積み重ねられてきました。Q&A的なコラムでも書こうかと思いますが、ブログでは情報がまとまりにくく、どこにどう載せようか悩んでいます。HPをリニューアルしたいと思う理由のひとつがQ&A的な情報の蓄積ができる仕組みが欲しいからなのですが、まだよいアイデイアがありません。本を書けばよいのかもしれませんが、そこまでの労力を今はかけられない。口述筆記が一番楽だろうなぁ、となまけ者の自分はそんなことばかり考えているのですが。アウトプットを実現するには何年もかかりそうです。

というわけで「説明書」はまだまだ書けませんので、各自で試行錯誤をお願いします。

それでも、今日はひとつぐらい書いてみます。

◎質問>私は幸せになれますか?

こういうご質問の場合、回答は霊界からは来ません。なぜなら、幸せの定義が霊界には特にないからです。幸せの概念はほとんどの場合、現実を生きている私たちの精神が人生を重ねる内に、経験や知識で創り上げている幻想だからです。その幻想を追いかけることは魂の目的ではないので、こういう尋ね方では守護霊さんから本当の目的に沿う為の指針を得ることは難しいと思います。

そうではなく、
・私が幸せになることを妨げていることはなんですか?
という質問は、とてもよい質問です。
なぜなら、「幸せ」をおいかけることは幻想であっても、それを妨げている「障害」と向きあう時、魂は「自分本来の使命や役割、目的」について深く考え、追求しているからです。そのことを守護霊さんはすごくよくわかってくれるので、こういう質問にはたくさんの指針が返ってくることが多いようです。

あるいは、
・私の幸せの定義はなんですか? その定義は自分の魂にとってどのような意味がありますか?

こういう質問もあるかもしれません(こんなふうに問いかけた人はかつていませんが)。非常に哲学的ですし、禅問答のような問いかけです。でも、こういった問いかけに答えることが「大好きな守護霊さん」もいます。だいたい、ご本人が頭のなかで考えていることを守護霊さんは全部知っているので、自分が本当に疑問に思っていることを問いかけると、わりと良いアドバイスが返ってきます。

ただ、質問をすることのリスクも考えてください。「それはあなたの前世にこれこれこういう辛い出来事があって・・・」等というメッセージがかえってくる場合もあります(そうなるかどうかは、人それぞれです)。潜在意識に隠されていたトラウマやコンプレックスを指摘されることもあります。もっとも、ご本人が受け取る準備ができてもいないのに、一方的に情報が示されることはありません。ですから、本当にきいてみたいことはきいてみるのがよい、ということはいえます。だったらなんでも質問してください、でいいのでしょうけれど。時々、前世の情報を受取る事によって、現実の選択肢におおきな影響を与えることがあるのです。恋愛、転居、転職など現実の様々な選択肢で迷うことは誰しもあるものです。ところが前世の情報を知ると、自分が選ぼうとしていた事は「よくない選択」で、少し難しい選択をするしかない、という結果になる場合もあります。ですから、現実面でなんらかの問題に直面している場合に、その「なぜ?」を霊界に問いかけると、少しの間ちょっと辛い時期がやってくる場合もある。そういうリスクを考えて質問をしてください。

ご参考になるでしょうか。。。なるといいな。

1+1=2でいいのか

ブレスレットを受け取ってくださった方からよくお問い合わせがあります。
石がかけたり、ゴムが切れたり…パワーストーンを持ち歩いていると、いろいろなことがあります。偶然だろうと受け流す方。しばらく放置しておいて、なにかのついでにそういえば、と差し出す方。一方で、すぐにご連絡くださる方…。どうしてなのでしょう?とお尋ねになりたい気持ち、その強さもそれぞれ違います。

石がかけたり、ゴムが切れたりするのにはしっかりと理由があります。パワーストーンは、私たちがもっている想念や運勢に関連する波動に強く共鳴するので、うまく利用するととても素晴らしい人生の鏡になってくれるものです。それを利用して運気をあげることもできます。精神的なコンプレックスを解消することもできる。そして、石になにか起きた時にそれを通じて「魂の成長につながるヒント」を受け取ることもできるのです。

パワーストーンに起きた出来事をなぜだろう、どういう意味があるのだろう、と考える人とそうでない人がいます。考えるにしても、1+1=2と簡単に結論づける人もいるでしょう。でも、本当にそうなのでしょうか。

1+1=は「2」です。でも単なる「2」でなくとも、ルート2の二乗でもよいのですし、割ってでたら嬉しい黄身の数と考えてもよいのです。そこに秘められた意味は無限にあるものです。

自分の人生は、ひとつの数式で簡単に表せるものではないはずです。今、理解できる範囲ですっかり納得しようとすることは無理がありそうです。今わからなくても、いつかわかるようになる。もっと理解が深まるようになる日がくる。そう考えて、未来への課題として受け止めていくことも必要かもしれません。

パワーストーンのこと

子供のころから、細かいものを集めること、作り出すことはたしかに好きだったし得意なほうだったと思う。しかし今日、ここまで自分がパワーストーンに傾倒することになるとは考えていなかった。人生、わからないものです。

石のことを調べたり、扱いはじめて感じたことは信頼できる情報はとても少ないということ。レイキにも同じことがいえる。真実が見えるところにはない。いったい誰の言っていることが正しいのか、そうでないのか。調べれば調べるほど混乱していく。これでは時間がいくらあっても足りないと思い、ある時から文献をみなくなった。見るとしても学術的に信頼できる情報に限り、それ以外は必要最小限にしぼっていった。でも、結局どうして黄色い石は金運アップなのか、ピンクの石は恋愛運アップなのかさっぱりわからなかった。今でもわかっているとはいえないかもしれないが、一応自分なりの解釈は持てるようになった。

まず感じてみる。仮説をたてる。実証してみる。できるだけたくさんのデータを集める。自分でもひととおりの石は持ち歩いたりして効果を感じてみたし、エネルギーにしっかり共鳴する練習をしているうちに、それぞれの石の性質が感覚的にわかるようになった。その時の練習が今ではすごく役にたっていて運命鑑定にも応用できるようになった。石を通して得た感覚が今の自分のカウンセリングの領域を広げることにも大変に役にたったのだから人生っていったいなにが奏功するかわからないところが面白いのではないか。

パワーストーンといえばヒーリングをイメージする人はおおいかもしれない。実際パワーストーンでヒーリングをすることはとても効果的な面もある。だが、自分はまだそこまで教えていない。いろいろな理由があるが、中途半端なことは教えたくないということがひとつの大きな理由。戦前のレイキ療法でもパワーストーンは使われていたようだ。いずれはレイキとここまで深めてきたパワーストーンの技法を統合していけるのではないかと思う。素晴らしい効果が発揮されるだろう。そのことを考えるとわくわくしてしまうのだが…。確実に結果をひきだすには感性を十分に磨く必要がある。まだそこまでのスキルをみにつけている生徒はいないので、みんなにはしっかり研鑽をつんでもらいたいのです。

わたしは全ての技法をみんなに教える為に日々、粛々と自己研鑚を積み、受け取れる人たちが現れる日に備えているんです。教えたい。その為の準備とおもえばどんなに多忙でもけして苦にならない。

ゆるしてこそ

人間関係のご相談などをお伺いしていると、
つまりところ私たちの守護霊さん達は、
ゆるしてあげなさい、ということを導いてくださる。

高次元からの視点でものをみれば、すべてに納得せざるをえない事由があり、
背景をひもといていけば、仕方がない、どうしようもない、
なるべくしてそうなっているのだ、という因果がみえてくる。
幾重にもおりかさなった因果のなせる業なのだから、
お互いにあゆみよれない、わかりあえないとしても、
誰のせいでもなく、誰を責めることもできないことがわかってくるのです。

知恵を得ることで、心が真実に歩みよれ、結果的に
相手をゆるしてあげることができる。

ゆるすことができれば、魂はその因縁を手放し、
次の段階にすすめるのです。

石は柱のキズのごとく魂の成長を現しているのかもしれない

日々をかさねるごとに、魂はなんらかの形で成長していくものです。時に遠回りもあり、疲れることもあるけれど、時の流れには誰もさからえない。不生不滅(生きることにも、死ぬことにもとらわれない)とはいうものの、とらわれていくのが人生というものです。

ブレスレットを作らせていただく機会が少なくありません。石は変化したりしない。かわるのは生きている私たちのほうです。時間がたつごとに、次第に石と波長があわなくなってくることもある。石も疲れるので、あまり疲労がたまるとブレスレットそのものが壊れてしまうことさえ起きうるものです。

時を経て戻ってきたブレスレット。時折り、おや?と思うことがあるのです。それは、「もうこの石はいらない、別の石が必要だ」とブレスレットが訴えてくる。幾つか石をいれかえてみると、今現在のその人の姿とぴったり一致する。要らなくなった石、あたらしく必要になった石。それぞれを見比べてみると、魂がどれぐらい成長したのかが一目でわかります。

人生で大切なこと

人生のビジョンとはなにか、ということがカウンセリングを行う時に、実はかなり重要な要素になっている。相談内容がなんであれ、霊視する時にはその人が潜在的に携えている人生のビジョンを感じ取っている。はっきりみえている、といってもいい。

だからけしてぶれないアドバイスができる、ということだ。どんなに厳しい意見であっても、受け取る人にとって必ず糧になる、ということがわかるのは相手の人生のビジョンがみえているからこそ。

ビジョンがあるかどうか、ということは本当に大切だ。また、支え合う関係性においてもそれぞれのビジョンが合致しているかどうか、共鳴しあっているかどうか。なんらかの形で連帯があればうまくいく。だがビジョンが合致しておらず、共感しあっていない関係性においては、どちらかの魂が著しく疲弊していく。5年、あるいは10年という年月のなかで少しずつなにかが崩壊していく。

ビジョンは簡単に定まるものではない。そして一生かかっても尚、形にすることが難しいこともある。それでも、人はビジョンを探し求める。関係しあうなかでお互いのビジョンを探り合うこともある。一生かかっても、掘り下げ、定め、そして具体化しようとする。結果のでない人生もある。だが、良い結果、悪い結果、というのはないのである。いかなる人生であろうとも、ビジョンにむかって進んでいくことがなによりも一番、重要なのだ。

なにかを信じること。みつめつづけること。保ちつづけることだ。

ビジョンをみつけ、さだめ、形にできた!完成した!そんな人生など存在しないのでないだろうか。

楽をするかどうか決めるのはあなた

とっても大変だけれど、やりがいのある仕事、充実感も達成感もある。でも消耗するし、ずっとつづけていくのは正直辛いものがある。

いっぽうで、大変さはかわらない、仕事の重みもけして軽いわけでもない。充実感、達成感もしっかりある。消耗もするんだけれど、それ以上に元気になれる、幸せな気持ちになれる。そして、これならずっと続けていけるだろうな、と「はっきりわかる」。

仕事にもしも2つの種類があるとしたら。どちらを選ぶだろうか。

選べるなら「楽なほう」と人は思う。それなのに現実はなかなかそうはならないもの。自分が苦労する分には耐えていけるから、仕方ない。人生とはそんなもの。そう思っている自分がいる限り、なかなか楽にはならない。

ところが、そう考えている人のパートナーにとっても、同じ試練がのしかかってくるとしたら。パートナーは、もう楽な生き方にしたい、すぐにでも切り替えていきたいと願っているのに、自分が意識を切り替えないばかりにパートナーにも辛い人生を歩ませてしまうとしたら。それでも、楽できる人生をあきらめる?

音楽で生きるということ

「ギャラリー門馬」でのウォンさんと及川さんのジョイントコンサートが終了。今年もいつもと違う空間で、違う時間を味わうことができた。

運良く打ち上げにも参加。ミュージシャンがあつまると音楽がはじまる。いろいろな人が少しずつ才能をもっている。面白いな。

音楽は純粋でいい。我が消える。人の内側から生まれ出るもので、こんなに美しくて純粋なものがあるだろうか。特に歌はいい。周りの人みんなが、ああいいな、と思う。

でも、いざステージに立てといわれて、和やかな場、空間、楽しい時間の流れのなかで、あるがまま自然に沸いてくるような声を出せる人がどれだけいるだろうか。

人は依存し合わなければ生きていけない。

自分と誰かがふれあっていて関わりあい、そこから生まれる温度差によって化学反応がおきて歌も生まれる。

まず報酬が、プライドが、条件が、と本質じゃないことが優先したり、誰かに強制されたりして、祭りの音頭のように自然に生まれてくるのではない歌が、はたして人の心をひきつけるものだろうか。

仕事で音楽をやっているとものすごく消耗する。実際、消耗し尽くしたこともある。職業音楽家は苦しいな。自分には向かないと思った。でも音楽は好きだ。好き、というよりも自分の一部だ。それができないのは苦しい。

気づけば、自分もいろんなことを背負ってしまう歳になったのだ。

12歳先輩のウォンさんの力強さと、一方で純粋な表情の両方を垣間みることができるだけで、本当に励みになる。このご縁がなかったら、音楽への情熱をとっくに見失っていただろう。

人はお金の為に生きるのではない

なんて当たり前のこと。
それなのに、いつの間にかとらわれてしまうのがお金のもつ魔力とでもいうのだろうか。
だからこそ、その「魔力」を通じて学びを深めることができる、ということも往々にしてあるもの。
だが、できるだけとらわれないで生きていきたい。

今回の相撲界の不祥事で貴乃花理事が辞職願をだしたそうだ。受理はされなかったらしい。受理されると思ってだしたわけではないだろうが、辞職願を提出することが大切だったのだろう。

人はなにかを強く訴えたい、という時にあえて自分を窮地に追い込むようなことをするものだ。

昔、課長職時代にちょっとした不祥事(と当時の自分では思い込んでいた)をやらかして、職を辞したほうがいいのではないかと悩んだ。が、相談するのはかっこわるいと思ったので「進退伺い」というのを上司につきつけて困らせたことがある。もちろん、そんなものは受け取ってもらえなかったが、それをきっかけに少し話しができたので、気が済んでしまった。自分の場合は、ただ話しをきいてもらいたかった、ということだったのだ。振り返れば幼稚ではずかしい。

また、ある時、給与査定に文句をつけたことがある。その時の自分の言い分は「なぜ今年も年俸があがらないのか。だめな理由があるならちゃんと下げてくれ。少しでもいいというところがあるなら1円でもいいから昇給させろ」というものだった。これもまた思い出すだけでも恥ずかしい。人間は5年も評価されずに放置されていると腐るものだ。当時の会社の言い分は、こんなに高い給料を払っているんだから、ほうっておいても大丈夫なはず、というものだったろう。たしかに自分は扱いにくい人間だったと思う。中途半端にアーティスト気質が強く、組織の中でそれなりにうまく生き延びていて、なんだかんだと仕事の実績は積み上げていたし、自分がいなければ会社が回らないという事も実際に多々あったのだから。傲慢でもあったが、結果はだしていたと思う。実際、かなり高給取りだった。それなのに5年ほうっておかれて、1円でもいいから上げろ、成果がたりないというなら下げてみろ、と因縁をつけたのだった。まったく恩知らずとはこのこと。会社にしてみれば飼い犬に噛まれた気分だったことだろう。

でも、あの時の自分としては本音だった。評価されているからこその立場、役職、給料だった。それがわからなくなるのだ。自分のやっていることがこれでいいのか。何年も評価されないと、次第にやる気が失せてくる。がんばれなくなる。いらいらしてくる。きっと部下にもやつあたりしていたに違いない。ギャンブルこそやらなかったが(いや、ちょっとパチンコはやっていたかも・・・)趣味だなんだと浪費していた気がする。それもこれも、ある種の自己アピールであって、気にかけてほしい、注目されたい、という心の作用からくるものだ。それが積もり積もると、年に一度の給与査定の面談で爆発する。

でも給与を払う側からすれば君の1年間の査定は1円だよ、といえるわけがない。人生のモチベーションをどうしたら得られるのか、という無理難題を相手に委ねていた自分は間違っていたと思う。

スティーブジョブスの給料は1ドルだそうだ。世界で一番いい仕事をしている人のモチベーションはいったいなんなんだろう。それを彼は自分で人生のなかで見つけたんだろう。だから大病をしても、必死で仕事にくらいつき最高の成果を出し続けている。

天才と自分を比べるわけではないが、1円で100%以上の力を出し切れるかな、と考えるとまだまだ未熟な自分がいる。お金はあったほうがいい。時々、パチンコでもやってパッと盛り上がりたい…でも、自分の魂はお金を通じてなにを感じたいのか、なにを学びたいのか。そう考えると「まったく重要ではない」と答えがかえってくる。「お金はあくまで手段であり、道具でしかない。けして振り回されるべきではない。目的や志の介在しないお金は、地面にこぼしたミルクのごとく、本来の力を発揮せずにむなしく消えていくだけ。」

人生は方向性を定め、しっかりと前進していくことが大事だ。心が通じ合うことができないから、言いたいことが通じないから、といってお金のせいにしてはいけないのではないか。でも、日常の自分の心模様、じっと静かにみつめてみると「お金があれば・・・」というつぶやきが幾つ聞こえるだろうか。一度、たしかめてみるといい。

まとまらないが、お金についてふと思った徒然。